カジノ法制定記念≪日本パチンコ伝≫



<日本にカジノができたら、パチンコはどうなるのか? その2>







パチンコの売上

 現在、パチンコの総売上は約19兆円で、ダントツの日本の基幹産業である。パチンコが最大の売上を示したのは、1995年の30兆9020億円で、これは当時の国家予算の約半分の額である。
 現在、世界のカジノで一番の売上を示しているのはマカオで、2012年には約4兆円であった。同年2位の、ラスベガスの売上は約6200億円である。日本のパチンコ売上の方が、世界のカジノの総売上(厳密には算出できない)をもってしても、やや上といわれている。


◎パチンコはギャンブルか?

 日本で、賭博は禁止されている。現在、公営ギャンブルとして認められているのは、競艇、競輪、競馬、オートレース、公営くじである。公営くじには、宝くじとスポーツ振興くじがある。
 これらの管轄は、競艇は「国土交通省」、競輪とオートレースは「経済産業省」、競馬が「農林水産省」、宝くじは「総務省」で、スポーツ振興くじは「文部科学省」である。


◎風営法

 パチンコ・パチスロはギャンブル的要素をもつ遊技で、3店方式(これについては後日説明)という方法で換金を行っている。パチンコは風営法により警察庁が取り締まっている。風営法は「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」で、「風適法」ともいわれる。


◎手打ち式パチンコの終焉

 「日本にカジノを」というホームページ(http://casino-status.com/GamingMachines.html)の<パチンコは賭博>には、「パチンコ・パチスロが技術介入を要する遊技であり賭博でないという主張もありますが、ハンドルを押さえるだけ、ボタンを押すだけのどこに技術介入があるんでしょうか?」とある。このホームページは、パチンコのマイナス面を強く訴えている。

 現在のパチンコは、電動ダイヤル式ハンドルで連続して玉を打ち上げるが、昔のパチンコは、手打ち式ハンドルで一発ずつ玉を打ち上げた。「ハンドルを押さえるだけ」のダイヤル式ハンドルは、1972(昭和47)年11月25日の警察庁通達により、昭和48年に全国的な解禁となり、昭和49年には、どのパチンコホールにも電動ダイヤル式の台が登場し、昭和50年代初頭には、ダイヤル式が主流となった。昭和初期から綿々と続いていた、手打ち式ハンドルの時代がここで終焉を迎える。

 パチンコは初めから手打ち式ハンドルなのだが、ダイヤル式ハンドルの登場により、ハンドルの上に「手打ち」という言葉がつくようになった。手打ち式は、打ち上げる時の手加減で、玉を入賞口にうまく導くことができた。名人級になると、10分か15分打ち続けると、出玉のチンジャラを聞きながら、禅僧のような無我の境地に入ることができた。名人級でなくとも手打ち式パチンコは、下手なりに、ゆっくり、のんびり、時間つぶしに、楽しみながら打つことができた。戦後、パチンコが大衆娯楽として全国に広まった大きな要因がそこにある。

 「正村ゲージ」は、パチンコの面白さを、さらに増幅させた。それゆえ、正村ゲージを考案したといわれる名古屋の正村竹一が、「釘の神様」「パチンコの神様」と謳われたのである。
 
◎パチンコの歴史は長い

 「パチンコは戦後に生まれた遊技」と思っている人が多い。だが、パチンコが生まれたのは、昭和初期である。大正末期に、欧米で人気のあったギャンブルマシン「ウォールマシン」が日本に伝来し、「日本製ウォールマシン」が製造され、さらにそれを元にして作られたのがパチンコなのである。私はその日本製ウォールマシンと初期のパチンコ台を所有し、それらの台に貼られたプレートをもとに調査し、2008年、創元社より『パチンコ誕生 シネマの世紀の大衆娯楽』を上梓した。



  










パチンコ誕生 シネマの世紀の大衆娯楽』




◎パチンコが「機械遺産」に?

 出版の少し後、『パチンコ誕生 シネマの世紀の大衆娯楽』を読んでくださった西日本工業大学の池森寛教授より、「初期のパチンコ台をぜひ日本機械学会が認定する『機械遺産』にしたい。機械遺産にエントリーしてほしいのですが」という連絡があった。池森教授の言葉に感激した私は、所有する中の、最も重要と思われるパチンコ、4台を選び、機械遺産にエントリーした。

 一般社団法人日本機械学会は、1897年の創立で、機械に関わる技術者、研究者、法人会員等で構成されている。2011年当時、会員数3万7508人で、我が国最大級の学術専門家集団であった。2007年に創立110周年記念事業の一環として、機械遺産の認定を開始。機械遺産の対象は、日本国内の機械技術面で歴史的意義のある機械や関連システム、工場、設計仕様書などである。

 池森教授によれば、機械学会では、「兵器とギャンブル機」は原則的に遺産には認定しない方針だが、これからは幅広く考えていきたいということだった。
 「認定には学会員のコンセンサスを得る必要があるので、学会で論文発表をしてはどうか、私でよければ、機械学会の論文の書き方を指導します」と、同学会員である九州大学の吉田敬介教授他に誘われた。パチンコの出自と発展を論文にして発表した人は、いまだ一人もいない。私は、正しいパチンコの歴史を残すため、吉田教授の指導の下、2011年から2012年にかけ、東京工業大学、沖縄琉球大学、金沢工業大学、佐賀大学において、4回の論文発表を行った。

 結果、機械遺産には認定されなかった。認定されなかった理由は、はっきりと明かされていないが、論文発表時の質疑応答から察すると、パチンコのギャンブル性、パチンコ依存症や朝鮮半島への金の流出等々が考えられる。

 4回の論文発表は、私にとって非常に有意義なものであった。吉田教授他との連携で、2008年出版の『パチンコ誕生 シネマの世紀の大衆娯楽』の記述に間違いのないことが確認できたからである。
 東京工業大学での1回目の論文発表は、2011年9月14日に行われ、その模様は日本遊技関連事業協会広報誌「日遊協」10月号と、パチンコ業界誌「遊技通信」11月号で報じられた。


             
        「日遊協」2011年10月号より    「遊技通信」2011年11月号より 



◎100台の手打ち式パチンコ台を燃やすか否か

 『パチンコ誕生 シネマの世紀の大衆娯楽』が売れなかったので、用意していた続編が出版できず、その代わりに機械学会で論文発表を続けていこうと考えていたのであるが、1年間、4回、論文を発表しても、パチンコが機械遺産に認定されない以上、発表を続けても学会内のみのことで、多くの人にパチンコの歴史、そして、それが日本人独自の文化であったということを知らせることができない。私は5回以降の論文発表を取りやめ、エントリーを降りた。

 降りた最大の理由は、4回の論文発表を指導していただいた吉田敬介教授が、肝心のパチンコについて、興味も関心もなかったことである。彼は論文を書くことに関してはプロなのであるが、パチンコの楽しさを初めから全く理解していなかった。ではなぜ、「私でよければ、機械学会の論文の書き方を指導します」なのであるが、まさか、まさかで、論文の回数を重ねていった。最後の4回目は、彼が多忙と体調不良という理由で、論文原稿の締め切り日当日の脱稿だった。
 機械学会の機械遺産がどのように選考されるかわからないのであるが、持ち主の私がそこに出席できない以上、吉田教授にお任せする以外にない。

 3回目と4回目の論文発表を前にして、彼と打ち合わせしたところ、彼は4回の論文発表程度では機械遺産には認定されない旨を話した。さらに、他の学会を紹介するともいわれた。私はその段階で、エントリーを一生続けても、パチンコが認定されることはないと直感した。私は彼に、「発表前から、機械遺産に認定にならないとわかっているようなものは、燃やすだけです」といった。
 
 上記の理由でエントリーを降りる旨を池森寛教授に話したところ、池森教授は、吉田敬介教授がもっと学会でパチンコのことを知らしめたいと、日本機械学会誌(2012年9月号)にパチンコの記事を載せるという原稿をメールに添付で送ってくれた。図Aがそれである。









図A 日本機械学会誌に載せるパチンコの論文原稿






図B 赤線の部分が誤りの表記である。


 ところが、一番肝心なところで、大間違いがあった。それは、最初のパチンコは、入賞すると、「景品は機械の傍にいる人間が電球の点灯等を確認して手渡しした(図B参照)」である。パチンコは、パチンコ台から現金や玉が出るからパチンコ台なのであって、入賞を確認して、人間が手渡ししていたのでは、パチンコとはいえない。現存最古のパチンコ台は、玉ではなく現金が出たことを示すもので、それゆえ、貴重な機械遺産なのである。
 
 4回も論文を発表したにも関わらず、吉田教授が最初のパチンコ台を理解していなかったことに、芯から驚き、このまま発表されては非常に困るので、池森教授にその旨を話した。

 図Cをご覧いただきたい。これは現在もネットで流れている吉田教授の上記の「大正末期から昭和初期の国産遊技機(パチンコ台のルーツを訪ねて)」の論文である。









図C 日本機械学会誌に載せたパチンコの論文






図D 訂正された表記の部分


 図Dは、私が指摘した部分を吉田教授が「機械の裏にいる人間が電球の点灯等を確認して払出口から硬貨を出した」と訂正したものである。全く、やれやれであった。

 一時は、本気でパチンコ100台を燃やしてしまおうと考えたのだが、こんな次元の低い話で燃やしてしまったのでは、今まで私を支えてくれた人達に申し訳ないので、60代半ばの残りの余生を、なおパチンコの歴史研究に費やすことにした。


◎ギャンブルマシンは人間の崇高な文化遺産

 私はパチンコが機械遺産に認定されたならば、私の収集した現存最古のパチンコ台に始まる手打ち式パチンコ機100台と、パチンコの元になったウォールマシン(壁付き機械)、さらにそのウォールマシンの元になった各種バガテール、パチンコ関係のチラシ、カタログ、マッチ、おもちゃ、レコード等々、数百点を、「保管・展示」を条件に、遊技機等を研究している大学、パチンコ機に関心のある地方の博物館等々、然るべき施設に寄贈するつもりでいた。だが、機械遺産の選考委員がこのような認識だとすると、収集したパチンコは、私の思った以上に負の遺産ということになる。

 私は「射幸心(賭博心)」は、人間の一部と考える。霊長類で射幸心をもつのは、人間だけである。射幸心は人間の証明である。ギャンブルマシンは、人間が考案した崇高な文化である。

 現在私は、カジノ法制定後に、全国各地にオープンするであろうカジノの中に、これらを展示するのが一番ふさわしいと考えている。日本にもパチンコというギャンブルマシンが、昭和初期からあったのだ。ギャンブルをやる人、やらない人を問わず、ぜひ見てほしい。

 そうこうしている内に、カジノ法の制定が目前となった。カジノ法案審議にあたって、国会議員の方々と、それを見守る国民に、パチンコの正しい歴史を知っていただきたく、ホームページを開設した次第である。

 日本のカジノに、長い歴史をもつ日本独自のパチンコが置かれることを、強く望むものである。


 

●日本機械学会第1回論文発表
「パチンコ台の歴史からみた技術と社会の連関(第1報 草創期のパチンコ台に関する調査情報の整理)」

 機械学会でのパチンコの論文の表題は「パチンコ台の歴史からみた技術と社会の連関」で、1回目は「草創期のパチンコ台に関する調査情報の整理」である。以下、機械学会に記録された論文ではないが、学会でパワーポイントで映しながらプレゼンした私の話をここに載せる。論文そのものは専門用語が多すぎて、分かりずらい。私の話で、パチンコの歴史の一端を少しでもご理解いただけたら幸いである。

 日本機械学会第1回論文発表
「パチンコ台の歴史からみた技術と社会の連関(第1報 草創期のパチンコ台に関する調査情報の整理)



  
 *無断での転載を禁ずる。                  先頭へ 前へ 次へ 末尾へ