カジノ法制定記念≪日本パチンコ伝≫









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日本にカジノができたら、パチンコはどうなるのか?その1
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〈日本機械学会論文発表〉

日本機械学会第1回論文発表 
日本機械学会第2回論文発表
日本機械学会第3回論文発表
日本機械学会第4回論文発表


〈図版〉

◆ 「日遊協」2011年10月号掲載、論文発表記事
「遊技通信」2011年11月号掲載、論文発表記事

 
〈著書〉

『パチンコ誕生 シネマの世紀の大衆娯楽』
『戦前からあった台湾のパチンコ』


更新情報


プロフィール



 <日本にカジノができたら、パチンコはどうなるのか? その8>






  昨年12月5日、カジノ推進法案が国会に提出された。2020年の東京オリンピックまでに、カジノを中心とした統合型リゾート施設を造り、日本にやってくる外国の観光客を誘致するという「おもてなし」のコンセプトが受け入れられたのか、カジノを誘致しようという都市が増えている。カジノが経済効果をもたらさないという意見はほとんど見られない。今のところ、カジノに不安をもっているのは、カジノができると売上が減る可能性大の、パチンコホールだけではあるまいか。だからこそ私は、カジノに日本固有の長いギャンブル文化の歴史をもつパチンコを、ぜひ置いてほしいと願っているのである。パチンコとカジノが共存してこそ、日本のギャンブル文化が発展すると私は考える。


◎懐かしい東京オリンピックのおもちゃのパチンコ


1964年の「スポーツゲーム」



 写真の「スポーツゲーム」の盤面に「TOMIYAMA」とある。この頃、「トミヤマ」初め、玩具メーカーが東京オリンピックに乗じて、多くのオリンピック関係のおもちゃを作った。
 「スポーツゲーム」の盤面には、「TOKYO JAPAN 1964」と書かれている。ブリキのおもちゃを作っていたトミヤマらしく、盤面はブリキ板で、直接、絵柄が印刷されている。写真のように立てて使うとパチンコであるが、寝かせて使うと、ピンボールのおもちゃということになる。


◎元旦の横浜市カジノ記事


 2014年元旦の読売新聞(神奈川版)には、横浜市がカジノの誘致に乗り出すと報じられている。新聞では「カジノ推進法案」ではなく、「カジノ解禁法案」とし、「刑法で『賭博』に当たるとして禁じられているカジノの解禁を目的に、『統合型リゾート』を設置するための法案」と書かれている。
  東京都、沖縄県、大阪府、宮崎県、北海道等がカジノ誘致に名乗りを挙げているが、横浜市もついに名乗り出たのである。横浜市はプロジェクトチームを作り、カジノがもたらす経済効果のみならず、ギャンブル依存症などの課題面も検討するという。私は「日本にカジノができたらパチンコはどうなるのか その7」で、戦中の横浜曙町の遊技場を紹介した。横浜でパチンコは、早くから鈴富商会が進出したこともあり、戦前から存在した。特に鶴見でパチンコは、工場労働者に人気があった。昭和20年代、パチンコタイプの菓子販売機も置かれていた。横浜市はプロジェクトチームを作り、より良いカジノを作ろうとしている。そこで問題になってくるのがギャンブル依存症である。この解決は、パチンコ依存症を研究することから始めるべきと私は考える。




◎2新聞の横浜市カジノ記事
 
 元旦に横浜市のカジノ誘致の記事が出たと思ったら、1月9日には、横浜市の林文子市長が記者会見で、更なる誘致の前向きな姿勢を表明し、決意を強調した。この模様は、NHKのニュースでも流れた。下記の朝日新聞(神奈川湘南)と毎日新聞(神奈川湘南)の二つの記事は、それを受けてのものである。
 





 パチンコのおもちゃは、カジノができた際、カジノグッズとして最適なのではあるまいか。横浜市のカジノプロジェクトチームは、ぜひ、パチンコのおもちゃも検討してほしい。
 

◎戦前のおもちゃのパチンコ

 
 パチンコのおもちゃは、いつ頃から作られ始めたのであろうか。
 戦前に遊技場の全国支店網を築いた鈴富商会の上野鈴吉は『パチンコ必勝讀本』で、次のように語っている。

 こんな具合で七七禁令に依り、金物の統制に依る製造販売禁止になるまで、パチンコは必ず店の営業種目にあり、関西ではパチパチ、名古屋ではパチンコ、東京ではガチヤンと云ふ愛称を以つて、常に大衆と共に暮して来ました。

 「七七禁令」は昭和15年7月7日に出されている。これによりパチンコの製造は全面的に禁止された。戦前、本物のパチンコ台は、「パチパチ」「パチンコ」「ガチャン」と呼ばれていた。私のもつ、現存最古のパチンコ台も、現存最古のパチンコタイプの菓子販売機も、玉を打つたび、「ガチャン!」あるいは「ガッチャン!」と鳴る。










 「パチパチ遊び」
 (昭和5〜9年)


 上図のおもちゃのパチンコには、玉を弾くハンドルの横に「ビソア物乗(乗物アソビ)」とある。上野鈴吉は、「関西ではパチパチ」と語っているが、写真のパチンコのおもちゃの共箱には「パチパチ遊び」とある。当時、表記には右書きと左書きが同時に使われていた。
 昔懐かしい東京オリンピックのおもちゃ「スポーツゲーム」は、縦27p×横17.5pであるが、「パチパチ遊び」はほぼ同じの縦25p×横17.5pである。
 「パチパチ遊び」の盤面には、飛行機、路面電車、蒸気機関車、オートバイ、自動車が描かれている。こういった玩具は、時代を象徴するものや人気のキャラクターがいち早く取り入れられている。これらの中で一番新しいものが時代の尖端なのである。戦後でいえば、新幹線、万博、ウルトラマン、スーパーマン等々である。「パチパチ遊び」の盤面で一番大きい絵が蒸気機関車で、「メバツ」と書かれている。「ツバメ」は1930年の10月より東海道線東京〜神戸間を9時間で走り、当時としては画期的なスピードのため、超特急と呼ばれた。1934年より電気機関車となる。この絵は蒸気機関車である。一番古ければ昭和5年に作られたものとなる。これは昭和5年から9年の間に作られたものと思われる。


◎おもちゃのパチンコ特許第1号




 上図は、大阪市西区北堀江三番町七番地の森重正が昭和6年に出願し、昭和7年にとった実用新案出願公告第一三九九七号「彈球遊戲具」である。
 これが特許のおもちゃのパチンコの第1号である。これを私がおもちゃと断定するのは、次の理由による。

@ このパチンコは入賞するしないにかかわらず、打った玉が元に戻る仕組みである。従って、何の賭博性もない。
A このパチンコのハンドルのバネについて実用新案の解説には、「ゴム紐」または「彈線」により牽引するとある。
B このパチンコ「彈球遊戲具」は、パチンコ特許第1号と全く同じ名前である。最初のパチンコ特許第1号はコインマシンであった。このパチンコはコインマシンではない。これは文字通りの遊戯具である。

 この実用新案がなぜとれたかといえば、図面の「第三圖」のゴム製の玉台にある。解説にはこのゴム製の玉台により、騒音が緩和できるとある。おそらく、この頃、こういったものが流行していて音がうるさいと感じている人が多かったのであろう。
 これを考案した森重正はパチンコ特許第1号の図面、または本物を見たのであろうか。森重正は今はどうしているのだろうか。昭和6年で30才としても、すでに100才を越えている。本人が存命でなくとも、親族がいるかもしれない。
 おもちゃのパチンコはどのようにして作られるようになったのであろう。
 特許から見た日本のパチンコは、三つの流れの中で作られてきた。
 一つ目は本来のパチンコ屋のパチンコ台である。最初のパチンコは一銭パチンコで、1銭を入れて入賞すると、現金かメタルが出た。パチンコは一口でいってしまえば、コイン投入の当て物器である。これがパチンコ特許第1号と第2号である。
 パチンコの二つ目の流れは、パチンコタイプの菓子販売機である。
 三つ目のパチンコの流れがおもちゃのパチンコである。
 バガテールを立てて、ウォールマシンとなったが、これはバガテールを小型化して立てたわけだから、バガテールのおもちゃ化ともいえる。だが、日本ではウォールマシンが伝来してから、パチンコがおもちゃ化されたと考えるべきで、おもちゃから本来のパチンコになった可能性はない。なぜならば、おもちゃのパチンコが作られたのが、本物のパチンコ台よりも後だからである。昭和6年のこのおもちゃのパチンコの実用新案が、それを示している。
 2002年私は、大阪に行き、最初のおもちゃのパチンコ特許第1号の森重正の住所を、西区役所で調べた。区役所の地図を見ると、住所は戦前とほとんど変わっていないが、戦災で焼けた後、区画整理がなされているため、道路の位置や道路幅が多少違っているようだ。
 私は西区役所から徒歩で、西区北堀江三番町七番地に行ってみた。地元の古い家を訪ねようと思ったのだが、古い家自体が見あたらない。一帯はほとんどが戦後の建物となっている。今ここは個人住宅は少なくマンションやビルが圧倒的に多い。通りに面した商店で聞いてみたのだが、ここは住所よりも通りの名前の方が通りがよく、住所で道や場所を尋ねてもピンとくる人がいないのであった。広い範囲ではわかるのだが、このマンションのこの辺りという手掛かりがつかめない。私はその地番の辺りを行ったり来たりしたが、とうとうわからずじまいであった。
 私は森重正の手掛かりを得ようと、大阪府立中之島図書館に行った。
 職業別電話帳で調べたところ、昭和7年の『大阪電話番號簿』(大阪中央電話局)に森重正は次のように載っていた。

 森重號 森重正……新町53ー3383 西、北堀江三番、七 石鹸化粧品輸出

 昭和12年には次のようにある。

 森重號 森重正…… 新町53ー3383  西、北堀江三番、七  化粧品掛時計
          {天王寺77ー5962 東成、猪飼野東五ノ九}製造輸出

 昭和13年には次のようにある。

 森重號 森重正……東 94ー3883 東成、西今里、一四 化粧品掛時計製造輸出
 
 昭和14年以降の電話帳には載っていない。すでに昭和13年には国家総動員法がしかれている。化粧品や掛時計の製造が制限され、商売ができなくなったのであろうか。
 電話帳には森がもう一人いる。森は親族で製造輸出を行っていたようだ。この頃は輸出品は国内でも販売されていた。
 電話帳に載っている森重號と森重正の営業品目に「玩具・遊戯具」はない。森重正は昭和6年におもちゃのパチンコを出願しているから、おそらくこの頃から石鹸や化粧品と一緒におもちゃのパチンコも製造輸出していたのであろう。だが、それはあまりヒットしなかったように思える。おもちゃのパチンコで会社を立ち上げたとは思えないから、おそらく森の会社は、石鹸や化粧品を取り扱っていたのであろう。昭和7年の「石鹸化粧品輸出」がそれを物語っている。
 昭和12年になると、電話が二つになる。おそらく、事務所と工場であろう。この時の営業品目は「化粧品掛時計製造輸出」となっている。化粧品と時計という組み合わせが何とも珍妙であるが、そこにおもちゃのパチンコがあることの方がもっと珍妙である。輸出を行うからには、流行に敏感で、流行のものを輸入して研究していたはずである。
 森重正は昭和6年の出願以前に、輸入されたパチンコの元のウォールマシンを見たか、または香具師のパチンコ営業を見たか、あるいはオーエヌ商会等の店舗で売られていたパチンコ機を見たかして、おもちゃのパチンコの製造を思いついたのであろう。森重正は巷に流行している当て物のパチンコをおもちゃ化しただけで、本物のパチンコ機は作らなかったと思われる。現に森重正がこの実用新案をとった昭和7年、大阪で本物のパチンコ営業が禁止になっている。




  
           

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