カジノ法制定記念≪日本パチンコ伝≫









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日本にカジノができたら、パチンコはどうなるのか?その1
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日本にカジノができたら、パチンコはどうなるのか?その6


〈日本機械学会論文発表〉

日本機械学会第1回論文発表 
日本機械学会第2回論文発表
日本機械学会第3回論文発表
日本機械学会第4回論文発表


〈図版〉

◆ 「日遊協」2011年10月号掲載、論文発表記事
「遊技通信」2011年11月号掲載、論文発表記事

 
〈著書〉

『パチンコ誕生 シネマの世紀の大衆娯楽』
『戦前からあった台湾のパチンコ』


更新情報


プロフィール


<日本にカジノができたら、パチンコはどうなるのか? その3>







◎カジノ法案 今国会提出へ


 



 2013年10月24日産経新聞より

 

 いよいよカジノ法が具体化してきた。2013年10月24日の産経新聞によれば、今国会でカジノを合法化して解禁する法案(カジノ推進法?)が出されるようである。この法案が成立すると、1年以内に具体的な関連法が整備されるということである。
 新聞には、自民、民主、公明党などの超党派議員による「国際観光産業振興議員連盟(カジノ議連)」が23日、幹事会を開き、カジノを合法化して解禁する法案を今国会に提出する方針を確認した。2020年の東京五輪開催までにカジノを中心とした統合型リゾート(IR)の整備を目指すとある。
 カジノ議連は、2020年の東京オリンピックまでにカジノをオープンさせ、オリンピック客に日本のリゾート施設のすばらしさをアピールする意向のようだ。

 私は神奈川県横須賀市に生まれ、1964年の東京オリンピックの時は、中学生だった。東京に出るたび、オリンピック直前まで代々木の屋内総合競技場や道路工事が行われているのを見た。新幹線建設も地下鉄も東京オリンピックに間に合わせるためであった。

 私の収集したパチンコの一つに、戦前、戦後に使われたベルリンオリンピックをテーマにした台がある。


 ◎オリンピアのパチンコ台


 この台の盤面には、「OLYMPIA」と書かれてい
る。

盤面頂部に丸い回転盤があるが、そこに描かれ
ているのは、有名な「前畑ガンバレ!」のラジ
オ放送で知られる前畑秀子である。

 この台については、私の、日本機械学会にお
ける4回にわたる論文発表の後に紹介したい。

 



◎バガテールの日本伝来 

 日本機械学会第1回論文発表をお読みいただき、一番わからない名称がパチンコの元のウォールマシンのさらに元の「バガテール」と思われる。
 そこで、バガテールの日本伝来を簡単に記す。

 パチンコの元のウォールマシンは、「バガテール」というゲーム台を立てたことにより生まれた。
 バガテールはビリヤードそっくりの遊技台で、18世紀前後、欧米で流行した。ビリヤードは様々な変遷をたどって今日にいたっているが、ビリヤード以上にいろいろな形に変化していったのがバガテールである。バガテールは大小様々あり、盤上に障害物が置かれているものもあるし、置かれていないものもある。
 ビリヤードもバガテールも貴族の間で流行したが、形にとらわれず大衆の中に入り込んでいったのがバガテールである。
 アメリカの西部開拓史時代、ビリヤードもバガテールもサルーンなどに置かれていたが、賭け競技として、より大衆的であったのがバガテールである。



                   「日遊協」(2009年9月号)の「パチンコ史」より転載

           

 上図は、私が2009年に日本遊技関連事業協会の広報誌「日遊協」に連載した折、使用させていただいた長崎歴史文化博物館の「漢洋長崎居留図巻(阿蘭陀屋敷)」である。ここには、バガテールでゲームをしている外国人が描かれている。この台はビリヤードに似ているが、盤上にゲートボールのような関門が置かれている。また、この図巻に描かれたキューはビリヤードのような直線の棒ではなく、先が曲がっている。
 バガテールとビリヤードの大きな違いは、ビリヤードは玉自体に得点があるが、バガテールは盤上の穴や関門に得点があるということである。この図巻の作者は不明だが、江戸後期に描かれたことはまちがいないという。これによりバガテールが江戸末期に伝来していたことがわかる。













出島資料館の「漢洋長崎居留図巻(阿蘭陀屋敷)」の復元されたバガテール



 上図は、現在、長崎市の出島資料館にある、「漢洋長崎居留図巻(阿蘭陀屋敷)」のバガテールを復元したものである。観光客はここで、実際に遊ぶことができる。この写真は出島復元整備室学芸員山口美由紀氏と杉本茂喜氏より提供していただいた。私もこの台で遊ばせていただいたが、長方形の縁の穴がアウト穴で、玉が外に出たら負けとなる。やってみると、見た目より奥の深いゲームである。
 長崎県の平戸市には、私の住む横須賀市と関係の深い、青い目のサムライ、ウィリアム・アダムス(三浦按針)の墓がある。アダムスが徳川家康にバガテールの存在を話していた可能性もある。


◎最後の大型バガテール

〈bP 安針塚と平戸と出島〉

 私が子供の頃住んでいた家の裏山を、尾根伝いに10分ほど行くと、私が通っていた横須賀市立逸見(へみ)小学校の真上に出る。さらに尾根を15分くらい歩くと、塚山公園にたどりつく。
 私が歩いた尾根は切土され、現在、高速道路となっている。
 
 塚山公園の名称は、三浦按針(ウィリアム・アダムス)の塚があることに由来している。今でも京浜急行逸見駅の隣に、「安針塚」という駅がある。私の子供の頃、安針塚の裏の谷間は一面田んぼであった。
 「按針」という名は、磁石の針によって舟の航路を定める水先案内人の意味である。ウィリアム・アダムスは、1564年にイギリスで生まれ、1588年にイギリス海軍の航海長になり、その後、オランダ船の航海長としてリーフデ号に乗り、1600年に日本に漂着した。徳川家康は外交顧問としてアダムスを重用し、浦賀港を中心とする外国貿易を行うために、浦賀に近い、逸見村250石を与えた。

 1609年、平戸にオランダ商館が開設される。1611年に初代オランダ商館長ヤックス・スペックスが家康に謁見(えっけん)する。その仲介をしたのは、アダムスである。
 アダムスは、駿府、江戸、平戸を行き来していたようである。『三浦按針11通の手紙』(田中丸栄子企画・編集、長崎新聞社)には、「第2の手紙」が英和対訳で載っており、そこには「1611年10月23日、日本、平戸から」と記載されている。「第3の手紙」にも「1613年1月12日、日本、平戸で書かれた」と記載されている。
 1613年、イギリス東インド会社のクローブ号が日本に交易を求めて来航。アダムスは一行に付き添い、家康らとの謁見を実現させ、貿易を許可する朱印状を取り付け、同年、平戸にイギリス商館が開設される。1614年、クローブ号帰還の際には、一緒に帰国できる許可が日英両方から出たが、アダムスは同船司令官のジョン・セーリスと馬が合わず、帰国を見送る。アダムスは1613年〜1615年の間、イギリス商館に勤める。

 1616年に家康が没し、徳川幕府は鎖国政策を推進し、貿易を平戸のみに限る。アダムスの立場は不遇となり、幕府に監視されながら、1620年5月16日、平戸で病死。
 1954年、平戸市大久保町の崎方公園にアダムスの墓が建立された。

 一方、出島は、キリスト教布教活動を行うポルトガル人を管理する目的で、幕府が1634年から2年の歳月をかけ築造。1636年、貿易に関係のないポルトガル人及びその妻子達をマカオに追放し、貿易関係者のみ出島に居留させた。1639年、幕府はポルトガル船の入港を禁止。1641年、オランダ商館も、平戸から出島に移される。これ以降幕末まで、貿易はここのみに限られた。
 こうしてバガテールは、出島のオランダ屋敷で使用されるに至るのであった。

 アダムスの生まれた年に、シェイクスピアも同じイギリスで誕生している。彼は『アントニーとクレオパトラ』(1606〜1607頃の作)で、「ビリヤード」という言葉を使っている。この頃、ビリヤードとバガテールはイギリスで共存していた。西欧のいろいろな知識を家康に伝えたアダムスは、もしかしたらビリヤードやバガテールのことも家康に話したかもしれない。


〈bQ おもちゃのバガテール〉

 イギリスではヴィクトリア朝時代(1837〜1901)、ホテルや酒場にバガテールが置かれ、屋台のバガテールまで出ていた。バガテールは大小様々で、手のひらに乗るおもちゃまで登場している。
 





 写真のこれは、手でゆすって、穴に玉を入れるバガテールのボールパズルである。
 盤面には、「THE BAGATELLE PUZZLE and GAME」とある。製造したのはイギリス、ロンドンの「R. Journet」社である。
 製造年月日が書かれていないので、これがいつ製造されたのかがわからないが、イギリスのおもちゃ等の博物館には、ヴィクトリア朝時代に作られたこういったおもちゃがたくさん展示されている。



〈bR バガテールの発展〉

 1899年に小型のバガテールが立ち上がり、パチンコの元のウォールマシンになったことはすでに日本機械学会第1回論文発表で紹介している。
 バガテールはいろいろに変遷して、今日に至った。




 上図は、1902(明治35)年にアメリカのパーレイ・W・カメロンが考案した特許番号702088のバガテールの特許「ゲーム・テーブル」である。
 これは19世紀に盛んに流行した典型的なバガテール台である。1902年といえば、自動発射装置のついたピンボールの元といえるコインマシンがすでに作られ人気があった。だが一方ではこのようなキューで玉を突くオーソドックスなバガテールの特許もとられていた。
 このバガテール台の特筆すべき点は、盤面の下が二重底になっており、盤面の入賞穴に入った玉が分別されてプレイヤーの手元まで転がってくることである。プレイヤーはこれにより得点が即座にわかった。もう一つの特徴は、パチンコでいう「風車」と「クラゲ」がついていることである。

 バガテールは、日本では玉ころがしに、アメリカではピンボールマシンに変遷していく。パチンコの元はコリントゲームという一説もある。そのコリントゲームも、元はバガテールに帰するのである。以下、バガテールの発展をまとめてみた。






〈bS 最後の大型バガテール〉


 ここで1930年代の「バー・ビリヤード」と呼ばれるイギリス製のバガテールをご覧いただく。図A参照。


図A


 この台を製造したメーカーはアスコットにある「BAR BILLIARDS LTD.」である。
 これは私がイギリスのヘイスティングズの「オールドタウン・アンティーク」という店で購入したものである。この台はコインマシンで、酒場などに置かれていた。コインを入れると手前のラックに玉が出てきて一定時間プレイできた。
 現在のこれは、古くなったこの台を購入したプレイヤーが、盤面手前の縁のそばにある「コイン投入口」を小さな四角いプレートでふさぎ(図B−1参照)、コインを入れなくとも遊べるように改良したものである。フェルトがきれいに貼り替えられていて、どこに水平器を置いても気泡は中央を示す。つまり真っ平らである。
 この台の大きさは縦197センチ、横87センチ、高さは得点板を含まないで83センチである。
 この台の特徴を挙げる。

・盤面に9個の穴が開き、それぞれに得点が決まっている。
・盤上に障害物が置かれている。障害物は玉が当たると倒れる。
・玉自体には得点はない。

 この台と一緒にオールドタウン・アンティークよりルール表を送ってもらった。それには次のように書かれている。

・コインを溝に入れて、手前のハンドルを引くと、玉がラックに出ます。
・白玉は一番手前に、その次に赤玉、三番目に黒の障害物を置きます。さらに、百点の得点穴の両脇に白の障害物を置きます。


図B−1                図B−2


 図B−1がルール表の、玉と障害物の置き場所で、これがゲームを開始する前の基本の形である。
 図B−2は、玉をキューで打つところである。キューで白玉を弾き、赤玉に当てるわけだが、障害物が立っているので、後ろの入賞穴に玉を入れるのは至難のわざである。
 バー・ビリヤードの「バー」とは、この台の中にある、入賞穴から落ちた玉をせき止める板のことである。この板は一定時間になると自然に降りてきて玉がラックに出るのを止めてしまう。これがこのコインマシンの台の最大の特徴である。
 障害物を倒すと無得点となり、プレイヤーが複数の場合はプレイヤーの交代となる。入賞すると玉はラックに戻って来るので、バーが降りるまでは、得点を重ねることができる。玉が盤上に全て並んでしまった場合は、一番近くの玉を、打つ地点にもってきてから打つ。時間がきてバーが降りた後も、盤上に玉があればプレイしなければならない。
 この台はビリヤードと名づけられているが、明らかにバガテールである。購入したオールドタウン・アンティークの老夫婦に「これはバガテールではないか」と聞くと、即座に「バガテールは小さいものだ」と返ってきた。
 老夫婦にとっては、バガテールとは小さなおもちゃのようなもので、このような大きなものはビリヤードなのである。


〈bT ブラッサイ「モンマルトルの娼婦」〉


 伊藤俊治著『冩眞史』(朝日出版社、1992年)を読んでいたら、「時代の目撃者たち」という章に、私の好きな写真家、ブラッサイが出てきた。ブラッサイは1920年代中半から夜のパリを撮り続けた。伊藤俊治は『冩眞史』で、ブラッサイについて、次のように語っている。

 ブラッサイがパリという街が啓示してみせるまばゆい光景を見つけるために夜をさまよい始めたのは、「夜に写真を撮る」ということがまだ誰にも信じられなかった時代のことだった。そして一九二四年に始まったパリ時代を通じて、ブラッサイは日が昇ると眠り、日が沈む頃に起き出すという生活を繰り返し、夜のパリにあって彼を驚かすものすべてを見つめてやろうという強い願望を実行に移すことになる。

 伊藤俊治はブラッサイの写した2枚の写真を載せて、ブラッサイの仕事を論じている。1枚は「ブラッサイ『夜のパリ』1933年」で、もう1枚は「ブラッサイ『モンマルトルの娼婦』1932年」である。2枚とも、モンマルトルの娼婦を写した有名な写真である。
 「夜のパリ」は数人の娼婦が裸で男の前に立っているところである。男が女を品定めしている。
 「モンマルトルの娼婦」は一人の娼婦がバガテール台越しにポーズをとっているところである。両手をバガテール台の縁にかけている。台の上にはキューが置かれ、白い玉が5個、黒か赤の玉が一つ転がっている。盤面の入賞穴が二つ見える。
 「モンマルトルの娼婦」のバガテール台は、私のもつバー・ビリヤードと同じタイプと思われる。大きなバガテール台としてはこれが最後のものであろう。バガテールは1930年代以降、ピンボールとピンボール的なゲームとに枝分かれし、ビリヤードと分離する。バー・ビリヤードはピンボールの名が定着する前の名称である。第二次大戦後はバガテールの名称がピンボールという名でくくられる。
 パリで、1932年にバガテールが健在であったことが、この「モンマルトルの娼婦」の写真によってわかる。

 Pantheon Books社のブラッサイの写真集『BRASSAI THE SECRET PARIS OF THE 30'S』は、1976年にフランスで出版されたものを、リチャード・ミラーが英訳しニューヨークで同年に出版されたものである。ここにある「モンマルトルの娼婦」には、「A prostitute playingRussian billiards,Boulevard Rochechouart,Montmartre(c.1932)」とある。飯島耕一がフランス語版を邦訳した『ブラッサイ 未知のパリ、深夜のパリ 1930年代』(みすず書房、1977年)には、「ロシア・ビリヤードで遊ぶ娼婦、モンマルトルのロシュシュアール大通り(1932頃)」とある。
 飯島耕一は翻訳した写真集の付録で、「われらの道案内 ブラッサイ」というタイトルで、「ブラッサイはハンガリー系のルーマニア生まれだが」と書き、さらに「ブラッサイはルーマニアのブラッサウに生れた。本名はジュラ・ハラーシュ。はじめは画家志望で、ブダペストの美術学校に学び、ベルリンに出て絵の勉強をつづけた」と書いている。
 平凡社の『アポロ百科事典』(1970年)で「ブラッサイ」を引くと、「ハンガリー生まれの写真家。本名Gyula Halsz。画家を志し1923年パリに移る。31年ころから写真を始め、パリを詩的な情緒でとらえて名声を博した」とある。
 『アポロ百科事典』では「ハンガリー生まれ」とあるが、ハンガリーとルーマニアは隣同士であるから、ブラッサウは後にルーマニアに組み込まれたらしい。
 彼はブラッサウ出身なので、作家ネームをブラッサイとしたのである。最初はカメラにそれほど関心をもっていなかったようだが、ブラッサイはジャーナリストとしての一面もあり、文章の説明として写真が必要だったので写真を撮るようになったという。

 さて、なぜブラッサイはバガテールまたはバー・ビリヤードを「ロシア・ビリヤード」と呼んだのであろう。
 ブラッサイにはスラヴ系の血が流れている。彼はパリの娼館で、バガテール台を見た時、即それが「ロシア・ビリヤード」と思ったのだ。つまり、ハンガリーやルーマニアで見た過去の記憶にバガテールがあり、バガテールはロシアからもたらされたと思っていたのだろう。バガテールの発祥はフランスといわれている。ブラッサイはそれを知らなかったようだ。





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