カジノ法制定記念≪日本パチンコ伝≫









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〈日本機械学会論文発表〉

日本機械学会第1回論文発表 
日本機械学会第2回論文発表
日本機械学会第3回論文発表
日本機械学会第4回論文発表


〈図版〉

◆ 「日遊協」2011年10月号掲載、論文発表記事
「遊技通信」2011年11月号掲載、論文発表記事

 
〈著書〉

『パチンコ誕生 シネマの世紀の大衆娯楽』
『戦前からあった台湾のパチンコ』


更新情報


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<日本にカジノができたら、パチンコはどうなるのか? その6>







◎カジノ法案がついに国会に提出された!


  2013年12月5日、ついにカジノを解禁するカジノ推進法案が今国会に提出された。これでカジノ法制定が決定的となった。だが、国会での審議は、来年の通常国会に持ち越される。この法案が制定され、さらにカジノ実施法が成立すれば、2020年の東京オリンピックまでに日本にカジノが誕生する。
 



 12月6日の読売新聞には、「カジノ解禁法案を提出」という見出しで、自民党、日本維新の会、生活の党の3党が衆院にカジノ解禁法案を提出したとある。



 朝日新聞には、公明党がカジノ設置の推進法案提出に参加しなかった理由を「刑法に例外規定を設けて賭博行為を認める法案内容に公明党内で慎重意見が根強く、事前調整がまとまらなかった」とある。


 産経新聞には、「超党派の『国際観光産業振興議員連盟(カジノ議連)』は、議連参加者のいる公明党、民主党、みんなの党にも共同提出を働きかけてきたが、慎重論が根強く3党による提出となった」とある。



 日本経済新聞には、「こんな時に乱れた足並み」という見出しで、「特定秘密保護法案を巡って今国会が緊迫した局面を迎えるなかでの『与党分裂』。自民党幹部は『こんな時に足並みが乱れるなんて』とぼやいた」とある。

 日本では、賭博が禁止されている。だが、賭博心(射幸心)は人間の一部であるため、どんなに法律で取り締まっても、根絶はありえない。パチンコが驚異的な売上を示しているのは、このためである。
 カジノ法案が制定されると、パチンコの三店方式による換金が問われるのは必定である。パチンコの三店方式がいかにして生まれたかを紹介する。


◎三店方式

 現在、パチンコは風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)で、遊技として規定され警察庁が取り締まっている。パチンコ店は遊技場なので、パチンコ客は景品の出玉を店で現金に換えることはできない。しかし、特殊景品と呼ばれる景品を介在させ、パチンコ店とは別の場所(景品交換所)で景品玉を現金化している。この特殊景品を用いた営業形態を「三店方式」という。特殊景品には、金、ボールペン、ライターの石などが使われている。これらの品物は、それぞれのパチンコ店と景品交換所のみ、見分けがつくようになっている。

〈三店方式の営業の流れ〉
@客は、パチンコ店で、パチンコの打ち玉を買い、パチンコ機に入れ、買った玉を打つ。
A客は、入賞してパチンコ機から出た景品玉をパチンコ店で特殊景品と交換する。
B客は、特殊景品をパチンコ店とは異なる営業の店(景品交換所)に持っていく。景品交換所は古物商がやっており、特殊景品を現金で買い取る。
C景品問屋が景品交換所から特殊景品を買い取り、パチンコ店に卸す。

 このように異なる業者、三店が関係しているので「三店方式」という。パチンコ店、景品交換所、集荷業者、卸業者と4店を経由する場合は「四店方式」という。

 三店方式が生まれたのは、第二次世界大戦後、パチンコが大人気となり、景品のたばこをめぐり、「買人」が出現したことによる。買人はパチンコ客から景品のたばこを安く買い、それをパチンコ店に高く売りつけた。


◎日本初の三店方式

 パチンコ業界誌の「プレイグラフ 1989年10月号」(プレイグラフ社)の「パチンコのルーツを探るPart2I」には、「名古屋が景品交換システムの法人化第1号 草創期に碓氷氏が暴力団に軟禁される」というタイトルで、「店内には景品買いのヤーさま≠ェウロウロ」の見出しから始まる、日本で最初の三店方式についての記事が載っている。碓氷(うすい)常雄氏のインタビューからなるこの記事を要約して載せる。

    パチンコの隆盛を支えてきたのは、「景品交換」(換金)で、この景品交換システムを最初に法人化したのは名古屋である。協立産業(株)の社長、碓氷常雄氏(当時70歳)は復員後、昭和24(1949)年に同市で菓子卸問屋を開業。市内の小売店にキャラメルやチョコレートなどを卸していたが、その顧客にパチンコ店も含まれていた。当時のパチンコ店の景品は、たばこ、チューインガム、靴下、ハンカチなどであった。
 昭和26年春、あるパチンコ店から碓氷氏に換金の話が持ち込まれたが、当時、パチンコ店には、一見それとわかる暴力団の「景品買い」がうろついていたので、「暴力団まがいのことは勘弁してほしい」と断った。

 昭和33(1958)年、名古屋遊技場組合の高宮武組合長から碓氷氏に「法人化して景品交換をやってくれないか」と打診があった。この頃、各地で暴力団によるパチンコの景品買いが横行、各種のいやがらせにパチンコ店が我慢の限界になっていた。当局の後押しもあり、全国的に暴力団排除の気運が盛り上がっていた。これは組合総意の要請であったのだ。
 碓氷氏は暴力団排除の景品交換に尻込みしたものの、取引のストップを考え、受けざるを得なかった。そこで、同じ菓子卸し仲間7人に呼びかけ、昭和35年春、「壱味(いちみ)商事(株)」を設立。この「壱味」とは、菓子問屋の間でつくっていた修養団体の名称で、以前からあったが、当局から「一味」と誤解されるとクレームが付き、翌36年に「愛産商会(株)」に社名変更した。

 壱味商会が設立されて間もなく、暴力団のいやがらせが始まる。脅迫電話、自宅への空気銃の撃ち込み、自動車のタイヤのパンク、傷、等々。最後には、碓氷氏本人が料亭に軟禁されてしまう。このような脅迫があっても、愛産商会は営業を行った。景品交換の対象商品は、靴下、ネクタイ、時計バンド、ネクタイピン、ハンカチなどで、パチンコ店によって使用する商品が異なっても、単価はすべて同一。営業の流れは下記のように行われた。

 愛産商会→パチンコ店へ1個202円で納入する→パチンコ店は客の賞品(景品)玉に対して、これを1個240円の景品として引き換える→客はこれを景品交換所へ渡し200円を受け取る→景品交換所が受け取った景品を、愛産が1個201円で引き取る。

 景品交換所はパチンコ店の外であればよい、とのことから店のすぐ近くに設けられていた。景品交換所は愛産商会が個人事業主として募集したもので、別個のものになっており、現金も景品交換所として支払っていた。

 ところが、このやり方が週刊誌に取り上げられたことから、昭和37(1962)年、愛知県議会で問題となった。その後、当局からの指導もあり、昭和38年2月、愛産商会はそのままで、全くの別会社として、景品の加工・包装を行う「協立産業(株)」を設立。この新会社に移ったのが、社長の碓氷氏他3氏。新会社の業務内容は、包装が破損したり、不良品が出たりしたものを選別し、再生可能なものは新しく包装し直すというものであった。
 協立産業の誕生により、景品交換の流れが次のようになる。

 愛産→パチンコ店へ1個203円で納入→パチンコ店はこれを1個320円の計算で、客の景品玉と引き換える→客は景品交換所で1個につき200円を受け取る→景品交換所から協立が1個あたり200円90銭で買い取る(選別、包装を行う)→協立が1個202円50銭で愛産に売る。

 当初は名古屋市内だけだったこのシステムは愛知県下に普及し、加工・包装の会社も増えていった。
 この方式は、巨額の資金が必要で薄利のため、結果、暴力団を締め出すことになった。
 

◎大阪方式

 一般にいわれる本格的な三店方式の始まりは、昭和36(1961)年に大阪で、当時、全遊連(全国遊技業協同組合連合会)会長だった水島年得が考案して誕生した「大阪方式」である。この方式が全国に拡大したといわれている。
『百年を築いた人びと』(ホールとメーカー遊技ジャーナル社、1971年)によれば、水島は戦前、大阪府警警察官で、昭和11年に警部補として渡蒙し、昭和19年には17の署を統括する大同の警察隊長となり、副参事官(今でいう副知事)の要職を兼任する。戦後になり、民間人として「最初に大阪の目抜き通り、心斎橋のド真中で七十五台(名古屋メーカー)で開店した」。水島は昭和34(1959)年から昭和44(1969)年まで、全遊連会長を務めた。
 大阪府の三店方式(大阪方式)は、暴力団の締め出しのみならず、景品換金業務を大阪身障者未亡人福祉事業協会に委託させることで、未亡人や障害者などの社会的弱者に雇用を提供して社会貢献に寄与していたことも、推進のポイントとなった。

 三店方式は、暴力団の介入を防ぐため、風営法の解釈の中でパチンコ店が警察の協力を得て行った苦肉の策であったが、以後、この方式が現在まで、半世紀以上も続いているのである。


◎映画に描かれた景品交換あれこれ

〈bP 1955(昭和30)年の「たそがれ酒場」(新東宝、内田吐夢監督)〉

 内田吐夢の自伝によると、彼は本名を内田常次郎という。1898(明治31)年に岡山県に生まれ、16歳で横浜でピアノ工の丁稚となる。その後、旅役者を経て、映画監督となる。吐夢「トム」は、横浜の愚連隊時代に、仲間が互いの名を「サム」とか「ジョージ」とか呼び合うなかでついた。
 第二次世界大戦末期になると、映画が自由に作れる時代ではなくなる。1937年に満州映画協会(満映)が創設されていたので、1943(昭和18)年、内田は国策映画「陸戦の華・大戦車隊」の企画をもって、満州の首都新京(長春)を訪れた。ところが、1944年6月、日本軍はマリアナ沖海戦で大敗し、7月、東条内閣が総辞職。「陸戦の華・大戦車隊」の企画は中止となる。
 どうしても映画が作りたかった内田は、満映理事長、甘粕正彦に掛け合う。それは1945年3月の東京大空襲のわずか2か月前のことであった。内田は甘粕から、満映の参与の資格を与えられる。内田は妻、芳子と子供たちを東京に残していた。
 8月9日にソ連が対日宣戦布告をし、ソ連の戦車軍団が新京を目指してやって来る。甘粕大尉は青酸カリで自決。内田は敗戦後、中国に残留する。満映撮影所は中国の撮影所となり、内田はそこで映画演出を教えた。
 内田が日本に帰国するのは、敗戦から8年以上経った1953(昭和28)年の10月である。この頃、日本ではパチンコ屋の軒数がもっとも多く、その軒数は4万3000軒を越していた。映画館数のピークが1960(昭和35)年の7400軒であるから、当時のパチンコ店が小規模だったとはいえ、いかに多かったかがわかる。
 内田の妻、芳子は、パチンコ店に働きながら、長男、一作を早稲田大学に、また、次男、有作を早稲田中学に学ばせていた。
 1955年の東映の時代劇「血槍富士」は、内田吐夢の中国からの帰還第一作である。作品は日本で内田を待ち受けていた多くの映画人によって応援企画された。槍持ち権八(片岡千恵蔵)の壮絶な立ち回りは、今も映画ファンの語り草である。
 この映画の後、内田は新東宝で「たそがれ酒場」を撮っている。主役は千恵蔵と同じく「人生劇場」等で戦前から気心の知れた小杉勇である。映画は舞台付の大きな酒場の一日である。この酒場のモデルは横浜伊勢佐木町の「根岸屋」と黄金町の近くにあったストリップ劇場などである。そこの常連、初老の小杉勇は高名な絵描きであったが、従軍画家として軍部に協力したことを恥じて筆を折っている。戦災で家族を失ったようだ。内田の当時の心象が反映している。
 この画家の目を通して酒場の一日が描かれるのだが、彼の今の職業がはっきりしない。はっきりしないままでは映画としての説得力に乏しいので、映画では彼をパチプロに設定している。パチンコの景品のたばこを酒場と契約し、引き取ってもらっている。マスターが細かく貸し借りを説明する。内田は戦前、浅草の射的屋の常連で、景品のたばこをよくとっていたという。おそらく日本に帰ってきた時、パチンコ屋があふれ、彼の妻もパチンコ屋で働いていたので、このアイデアが浮かんだのであろう。
 この酒場の舞台で踊る津島恵子のストリッパーが映画に華を添えている。この頃、天井の吹き抜けに舞台を造り、客寄せにストリップをやったパチンコ屋もあった。この後、内田吐夢は巨匠と呼ぶにふさわしい作品を続々と発表する。

〈bQ 1967(昭和42)年の「青春の海」(日活、西村昭五郎監督)〉

 吉永小百合と渡哲也共演の映画「青春の海」の原作は、石坂洋次郎が1950年に「文学界2月号」に発表した『ザルと空気銃』である。これは伊豆の温泉場を舞台にした短編小説である。題名が何となく構成主義を思わせる。石坂の初期の出世作『麦死なず』は、構成主義を日本に紹介した村山知義の『白夜』に酷似しているといわれる。戦前、日本でも構成主義が流行した。
 パチンコはコリントゲームを立てたと語られるが、コリントゲームの元はフィンランドでロシア構成主義の影響を受けながら、1925年頃生まれた。

 『ザルと空気銃』は石坂洋次郎本人らしき人物が、仕事をかかえて温泉宿に泊まっているという設定になっている。宿の老婦人が亡き夫の13回忌の法事をやるので、石坂に出席してほしいと頼む。法事の部屋の床の間には、空気銃が立てかけられ、目の粗いザルが置かれていた。法事が終わると老婦人は、亡き夫との出会いを語り始める。夫は温泉町の歯科医であった。二人の出会いは、床の間のザルと空気銃であるという。当時、雀は食糧として貴重なタンパク源であった。歯科医は治療中に、庭先に来た雀を空気銃でねらい、ザルでつかまえようとする。そのザルは治療にきていた若い頃の老婦人のものであった。空気銃が男で、ザルが女を象徴している。

 映画「青春の海」は、若い小学校教師の吉永小百合がわけあって伊豆の漁師町に妹の和泉雅子とやってくるという設定である。二人は歯科医の家に下宿する。原作とはまるで違う話である。同じなのは、歯科医が治療中に庭先の雀を空気銃で撃つという、ほんの少しのエピソードのみである。
 歯科医は川地民夫で、その老父の漁師が笠智衆である。笠智衆は潔癖な性格で密漁をよしとしなかった。生活は苦しかった。母は心臓が悪かったが、子供たちを育てるために無理をして海女を続けた。そして、それがもとで若死にした。母の死が原因で父親と確執が生じグレて町を出てヤクザになったのが、渡哲也の次男である。三男が工員の和田浩治で、四男が料理学校に通っている山内賢である。
 渡哲也は町を出ていたが、ひさかたぶりに町に戻って、とあるバーのバーテンをする。どうもバーのマダムのヒモのようである。このほとんどオリジナルに近い脚本は三木克巳が書いた。 
 マダムの子供は吉永小百合の生徒であった。小百合と渡はけんかをしながら、互いにひかれ合っていく。かくして、青春映画の定石通りに話が展開する。

 私は何のためにこのストーリーを語っているのであろう。
 筋などどうでもいいのである。兄、川地の歯科医の開業の資金を渡がどのようにして手に入れたかが問題なのである。
 映画の途中で、「パチンコ大穴(ダイアナ)」というプラカードが映ったかと思ったら、いきなりスクリーンに渡の顔のアップとともにパチンコ台が大写しになる。
 そのパチンコ台は、天穴(てっぺんの入賞口)の上にクラゲが一つついているものである。この映画の封切り時、私はすでにパチンコ屋に通っていたから、「青春の海」だからクラゲ台なのかとえらく感心したことを覚えている。
 渡はこのシーンの直後、川地に「どうせ、いかさまで儲けた金だ」といってかなりの札を渡す。渡はゴト師をやっていたのである。この当時、ゴト師の存在は誰でも知っていたから、観客はこの「いかさま」の一言で納得していた。
 すでに景品交換所での換金は、当たり前におこなわれていたので、ゴトだろうと玉を出し特殊景品に換えてしまえば、必ず現金化できたのである。

〈bR 1979(昭和54)年の「天使を誘惑」(東宝/ホリプロ、藤田敏八監督)〉

 一世を風靡し、三浦友和との結婚を機に引退した歌手の山口百恵が、三浦友和と互いに恋人宣言をした直後の共演11作目の映画がこれである。百恵、友和の両方のファンが、二人がすでに肉体関係にあるということを感じていた。そのためか、この映画で二人は同棲し、百恵は妊娠する。紆余曲折を経て、ラストは、婚姻届を出すであろうというイメージで終わっている。
 映画で三浦は、翻訳の下請けをしている。下請けなので十分な収入を得ることができない。百恵は彼を支えて、フルーツパーラーで働いている。三浦が近所のパチンコ屋でいつものように電動ダイヤル式ハンドル(昭和49年、全国に普及)で玉を弾いていると、百恵を心配した兄役の蟹江敬三が二人の暮らす家を訪ねてくる。三浦はパチンコの出玉がよくなってきたところで、たばこを切らし、玉をパチンコ店内のたばこに換え一服していると、表を通る蟹江を見つける。三浦は表に出てあいさつし、あわてて店内に戻り、たばこが入っているらしき袋をかかえて、蟹江のところに戻る。蟹江が現れなければ、三浦はもう少し玉を出し、出玉を特殊景品に換えて、景品交換所にもっていき、小遣い稼ぎをしたことであろう。蟹江は、昼間からパチンコをやっている三浦のよい身分にあきれる。この頃、日本の男性にとって、山口百恵は天使であり、菩薩であった。
 
〈bS 1991(平成3)年の「息子」(松竹、山田洋次監督)〉

 この映画には、パチンコの景品交換所の内部が登場する。映画で、交換所の生活者の様子を描いたものは、私の知る限り、この1本だけである。すばらしい作品なので、興味のある方はぜひ、ご覧いただきたい。

 カジノ法が制定されると、パチンコの三店方式が違法となる可能性が大で、パチンコ業界が現在のようなパチンコ営業を続けるためには風営法の見直しが必要となる。
 パチンコは、昭和の初めに生まれた。戦後になり、日本最大の大衆娯楽となり、基幹産業にまで成長した。それは法律で規制した換金行為が唯一許されているからであった。このパチンコのグレイ部分を論ずることなく、カジノ法を推進するのは、片手落ちなのではあるまいか。

 2012年3月10日、私は金沢工業大学で、日本機械学会の第3回論文発表を行った。第1、2回では、パチンコの元が外国のウォールマシンで、輸入されたそれらのギャンブルマシンが日本で「球遊機」として、どのようにコピーされていったかについて講演した。第3回では、コピーされた球遊機が自動販売機に変化した過程について述べた。自動販売機となったのは、球遊機がギャンブルマシンであったためである。パチンコタイプの自動販売機とともに生まれたのが、子供用のおもちゃのパチンコである。自販機のパチンコとおもちゃのパチンコについては、後に語る。
 第4回論文発表では、現金が払い出される、正真正銘のギャンブルマシン「パチンコ」の誕生と、その後の変化について述べた。この変化は、法律で賭博行為が禁止されていたことから生じた。パチンコといえば、台から玉がジャラジャラと出るものと誰もが思っているが、パチンコは、初めは台に玉が1個しかなく、その玉が台から出ることはなかった。


●日本機械学会第4回論文発表
「パチンコ台の歴史からみた技術と社会の連関(第4報 「電氣自働球遊機」の登場とギャンブル性)

 
 日本機械学会第4回論文発表


 これは、2012年3月16日に佐賀大学で講演したものである。これが日本機械学会での論文発表の最後となった。




 
           

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