カジノ法制定記念≪日本パチンコ伝≫









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〈日本機械学会論文発表〉

日本機械学会第1回論文発表 
日本機械学会第2回論文発表
日本機械学会第3回論文発表
日本機械学会第4回論文発表


〈図版〉

◆ 「日遊協」2011年10月号掲載、論文発表記事
「遊技通信」2011年11月号掲載、論文発表記事

 
〈著書〉

『パチンコ誕生 シネマの世紀の大衆娯楽』
『戦前からあった台湾のパチンコ』


更新情報


プロフィール



 <日本にカジノができたら、パチンコはどうなるのか? その7>






  2013年12月5日に、カジノを合法化し2020年の東京オリンピックまでに日本初のカジノを作ろうとするカジノ推進法案が、無事、国会に提出された。
 公明党が提出にクレームをつけた理由は、「教育的な影響」から、カジノに否定的な意見があるということと、刑法で原則的に禁止している賭博を解除するには、違法性をなくす理解を慎重に検討する必要があるというものであった。
 これまで出されているカジノ合法化についての問題点として、まず初めに挙げられるのは「ギャンブル依存症」、次にカジノができた時の「治安」で、公明党が懸念する「教育的な影響」は、これまであまり取沙汰されていなかった。戦前、駄菓子屋の自動販売機のパチンコで遊んだのは子供である。駄菓子屋の路地裏では、メンコやビー玉をやっていた。射幸心は子供の頃から養われていた。第二次世界大戦、日本は乏しい工業生産力を精神主義で補おうとし、子供にとって最も非教育的環境の時代となった。

 「ギャンブル依存症」「治安」「教育的な影響」、カジノのこの三つの問題点は、昭和初期にパチンコが誕生した時から抱えてきた問題である。パチンコは第二次世界大戦の敗戦を挟んで、警察がこの三つの問題解決に向け指導している中で発展し、現在の巨大産業となったのである。
 だが、パチンコの歴史研究は非常に遅れており、私の所有するパチンコ台がなければ、正しいパチンコの歴史を証明する手がかりがない。私がこのホームページを立ち上げたのは、日本で最初にパチンコの論文を発表した人間としての、責任感からである。日本初のカジノに向けて、ぜひ私が調査したパチンコの規制の歴史を活用してほしい。


◎玉の出るパチンコはいつできたのか?

        ――それは景品交換から生まれた


〈bP 第1回から第4回までの日本機械学会論文発表のまとめ〉

 日本機械学会で発表した第1回論文で、バガテールを立てたイギリスのヘンリー・ジョン・ジェラード・ペッシャーズの1899年の特許番号19610「新改良型コイン・フリード・ゲーム」を紹介した。これがパチンコの元のウォールマシンの最初の特許である。日本におけるウォールマシンの最初の特許は、大阪市の大對芳太郎と西村新太郎により1929年に出願され翌30年にとられた実用新案出願公告1971の「彈球遊戲具」である。
 パチンコの元といわれるコリントゲームの特許が日本に入ってきたのは、1932年1月である。コリントゲームの元は、イギリスで製造されていたコリンシアンバガテールで、コリントゲームはコリンシアンバガテールのコピー(日本機械学会第1回論文発表の写真参照)なのである。従って、コリントゲームはパチンコの元ではない。
 
 第2回論文発表では、ウォールマシンの日本で最初の登場が、宝塚新温泉で、それは、日本を代表する商社千代田組が欧米から輸入したものであったことを紹介した。このウォールマシンを日本で最初にコピーしたのは、日本の娯楽機産業の草分け、日本娯楽機製作所である。

 第3回論文発表で私は、発見した実物の日本製ウォールマシン「球遊機」を紹介し、このマシンが大正末年頃、日本娯楽機製作所の前身、遠藤美章商会によって作られていたことを証明した。このマシンは、景品の引換券の出るギャンブルマシンであった。日本ではギャンブルが禁止されていたので、球遊機はパチンコタイプの菓子販売機に発展する。
 
 第4回の論文発表では、岡兵三が1929年に出願した、日本で2番目のウォールマシン特許「電氣自働球遊機」を紹介するとともに、その実物の「岡式電氣自動球遊機」2台を紹介した。この特許の番号が日本のパチンコ機製造と営業の草分け、鈴富商会の昭和10年頃の社用便箋に記されている。この2台のパチンコ台は、台に1銭を入れると、台の中の玉が盤面に出て、それを打ち、入賞穴に入ると、裏にいた香具師が2銭、3銭を払い出すものである。完全なギャンブルマシンなので、昭和7年に大阪で禁止となる。福岡県では、昭和8年にコリントゲームとパチンコが禁止となる。
 だが、パチンコは1銭をメタルに替え、メタル式パチンコとして一部の地域で行われていた。

〈bQ メタルから玉の出るパチンコへ〉

 パチンコ台といえば、今ではジャラジャラと玉が出るものと誰でもが考える。だが、初めは現金またはトークン(代用貨幣=メタル)が出るもので、台から玉が外に出ることはなかった。
 結論からいうと、台から玉が出るのは、1937(昭和12)年からである。なぜ、玉が出たかといえば、玉の出るパチンコ以前に、ピンバガテールが変化したスマートボールが日本で発明され、当局に認可されていたからである。スマートボールは台から玉が出るものであった。
 スマートボールの名称であるが、これが一般的になるのは戦後のことである。昭和10年代、コリントゲームがあまりにも大衆に広まっていたため、スマートボール他、寝かせて遊ぶバガテール系の遊戯具は、おしなべて「コリントゲーム」と呼ばれていた。

〈bR 「球入『カウンターゲーム』盤」〉

 ここでオリンピックにちなんだコリントゲームをご覧いただく。





 これは戦前では最後ともいえるコリントゲームの図面(昭和12年実用新案第11029号)である。名称を「球入『カウンターゲーム』盤」という。考案・出願人は大阪市天王寺区の綿谷粂三郎である。
 コリントゲームといえば、第1回論文で発表した一枚板のものが元祖である。だがすでに、箱型の立体的なバガテールが伝来しており、これらを参考に遊技機メーカーが、それぞれ固有名詞をつけて販売していた。「球入『カウンターゲーム』盤」は玉を弾くキューや全体の形からいっても、元々のコリントゲームに近いものである。
 私はこの実物を見たことがある。五輪の部分は木製でそれぞれ色がつけられていた。得点は五輪の輪の中はもちろんだが、五輪の脇につけられた釘による小さな柵にもある。柵の下にはそれぞれ、「日本記録」「極東記録」「オリンピック記録」「世界記録」とある。
 このコリントゲームには複雑なルールはないが、オリンピックに期待する大衆の夢が感じられる。世界中の人々が集まって闘うのがオリンピックだが、この実用新案後の第二次世界大戦により、人々は本当の戦いに突入してしまった。
 コリントゲームは金属製ではないから、戦時中に供出しなくてもよかった。だが、玉は鉄なので、マジメな国民は玉のみ供出していたことであろう。戦時下、世界中の婦女子が本当の玉(銃弾)が飛び交う中、バガテールで遊んでいた。


◎田中英光著『オリンポスの果実』

〈bP 田中英光が記録した「デッキ・ゴルフ&コリントゲーム」〉

 小説家、田中英光は大正2(1913)年に東京市赤坂区(現港区)に生まれ、昭和24(1949)年に三鷹禅林寺の太宰治の墓前で、「太宰先生の墓に埋めてください」と書き残して薬と酒を飲み、カミソリで手首を切って自殺した。パチンコはこの自殺後、急激に広まっていく。
 彼は無頼派にしてマルキシストという太宰にはない社会性をもって、戦中と戦後まもなくの遊技場を記録した。
 田中英光は昭和7年のロサンゼルス・オリンピックにボート競技の一員として出場している。彼は生涯一度のオリンピック出場の経験を、昭和15年に『オリムポスの果実』という小説にして発表した。この小説にはコリントゲームが登場する。
 オリンピック出場時、彼は早稲田大学の学生で、20歳。9人のメンバーのうち最年少で、身長180センチ、体重70キロの輝ける肉体であった。チームにもう一人、彼よりも小さい田中がいたため、彼は「デカタナ」と呼ばれた。この名前は、彼の初期の作品のペンネーム「出方名英光」となっている。
 『田中英光全集 11』(芳賀書店、1965年)の年譜には、田中等選手団は、昭和7年6月30日に日本郵船の大洋丸で横浜港からロサンゼルスに向かって出発したと書かれている。
 7月の船内での様子について年譜には次のようにある。

――六日、入場式の練習、夜甲板ですき焼会。ハイジャンプの相良(大正2年月生、千葉県出身)は、高知市材木町に育ったため、同郷の英光が好意を寄せ、クルーの先輩から揶揄された。船内のマナーは厳格で、廊下、食堂、ゲーム室へは正装またはユニフォームで出た。八日、風雨強く荒れる。船酔いひどく、夜、食堂に出た女子選手は、相良・中西(京都二条女・ハードル)の二人だけであった。九日、荒れ模様続く。夜、甲板のすき焼会は出席者少なく、酔止めに禁酒がとかれる。七月、十一日午前六時、ホノルル着、十五日午前二時半、サンフランシスコ金門湾入港、 ……以下略

 船内のゲーム室にどのようなゲームが置かれていたのかはよくわからないのだが、おそらくコリントゲームは、ここに置かれていたのであろう。『オリムポスの果実』からコリントゲームのシーンを引用する前に、まずは主人公と主人公の恋する女性選手が、甲板でデッキ・ゴルフをするところから始めよう。デッキ・ゴルフは、甲板のゲームとして1920年代、旅行者のみならず一般にも知られ、盤上ゲームにもなっている。

 飯を食うと、ぼくは直ぐAデッキに出て、コーチャー黒井さんが昼寝している横の、デッキ・チェアに腰を降ろし、瀝青のように、たぎった海を見ています。暫く経ってから、黄色いブラウスに白いスカートをはいた、あなたと、赤いベレー帽に、紺の上衣を着た内田さんとが、笑いながらやって来ます。内田さんは、ぼくに、「ぼんち、デッキ・ゴルフやろう」と言ってから、今度は黒井さんの手をひっぱって、無理に起こします。黒井さんは、「ああア」と、大欠伸をしてから、周囲みまわし、「大坂とか、よし、また、ひねってやろう」とゆっくり立上がるのでした。
 そこで、あなたと内田さんの組と、ぼくと黒井さんの組が対抗してゲームを始めます。ぼくにとって、勝負なぞ、初めは、どうでも好いのですが、やはり良い当りをみせて、あなたの持ち輪を圏外の溝のなかに、叩き落としたときなぞ、思わず快心の笑みがうかぶ、得意さでした。(『田中英光全集 1』より)

 「瀝青」とは塗料のことである。アスファルトも「瀝青(れきせい)」という。ここではどちらを指しているのかわからないが、夏の海が青くピカピカ光っている様を形容しているのであろう。
  デッキ・ゴルフは船の甲板で行うゴルフであるから、玉が球体だと転がって海に落ちてしまう。「あなたの持ち輪を圏外の溝のなかに、叩き落とした」とあるから、デッキ・ゴルフはゴルフスタイルのバガテールともいえる。「持ち輪」は平べったい玉と考えてよいだろう。ここに登場する「あなた」が『オリムポスの果実』のヒロインである。では、肝心のコリントゲーム登場のシーンを引用しよう。

 ハワイを出て、海は荒れだしました。
     ……中略……
 さすが、巨きな汽船だけに、まア、リフトの昇降時にかんじる、不愉快さといった程のものでしたが、やはり甲板に出てくる人の数は少なく、喫煙室で、麻雀でもするか、コリントゲームでもやっている連中が多かったのです。
 そういう時、ぼくは独り、甲板の手摺に凭れ、泡だった浪を、みつめているのが、何よりの快感でした。あなたとは、もう遊べませんでした。で、ぼくは、あなたとレースのことばかり、空想していました。ボートは、勝負はとにかく、全力を出し切らねばならない。全力を出し、クルーが遺憾なく、闘えたとします。そうしたら日本に帰って、あなたと堂々と結婚できると思う。

〈bQ コリント商会のコリントゲーム〉

 この主人公は相手が自分のことをどう思っているか確認もしないで、結婚を夢想しているのである。「喫煙室で、麻雀でもするか、コリントゲームでも」とあるのは、ゲーム室の中に喫煙室があるということであろう。田中は学生時代、ビリヤード場に出入りしていたというから、コリントゲーム(バガテール)とビリヤードの違いがわかっていたはずである。
 コリントゲームの元である「コリンシアンバガテールの特許」が日本に上陸したのは、昭和7年の1月である。そして「コリント商会」の小林益三が実用新案出願公告第13011号「遊戲盤」を出願したのは、昭和8年の2月である。コリントゲームが爆発的人気になるのは昭和8年のことである。従って、田中が船上にいた昭和7年の7月、日本ではまだ、コリントゲームの名前が知られていなかったと考えられる。田中は『オリムポスの果実』を昭和13年から書き始めている。昭和13年に日本では、スマートボール他、ピンボール系のゲームは全てコリントゲームと呼ばれていた。
 この小説は最初『杏の実』というタイトルであったが、太宰治がギリシャ神話からとって『オリムポスの果実』とした。田中は太宰の指示に従って全文を改定したという。この小説は昭和15(1940)年9月の『文学界』に発表された。この時から、「出方名英光」から「田中英光」になったという。
 なぜ「杏の実」かといえば、主人公が「あなたに貰った、杏の実」を妻子のできた28歳までもち続けるからである。この実を捨てるところから、この小説が始まっている。

〈bR 田中英光が記録した「ロサンゼルス&横浜の遊技場」〉

 田中英光のチームは予選で敗退し決勝戦には進めなかった。その後、彼はロサンゼルスのピアやハリウッドで遊んでいる。以下引用する。
 
 帰国するまでに、約二週間はありましたから、その間、ロスアンゼルスのブロードウエイを、或いは、ロングビーチの下町を、またはマウントローの養狐場を、 ……中略…… 海水浴場の近くで、六十歳前後の老人夫婦から、十五歳位の少年少女のカップルに至るまで、ダンスを愉しんでいるホールを覗いたことも、ダウンタウンで五仙を払い、メリーゴーランドの木馬に跨がったことも、ボールを黒ん坊にぶつけて、亜米利加美人を落としたことも――。
 その黒ん坊が、意外にも日本人だったのです。虎さんが、ボールを握って、モーションをつけると、いきなり、黒ん坊が鮮やかな日本語で、「旦那はん、やんわり、頼みまっせ」と言い、ぼく達が、驚き呆れていると、「顔は黒う塗ってますが、心は同じ日本人でさア」その言葉の終らないうちに、虎さんの直球が、黒ん坊の額にはずみ、右上の鳥籠に腰かけていた亜米利加美人がばちゃんと、下のプールに落ちこみました。
 さては、射的場で、兎を撃ったことも、インディアンと腕角力をしたことも、マジックタウンの鏡の部屋で――。

 1920年代、アメリカでは、日本版バガテールの玉ころがしが「ジャパニーズ・ローリング・ボール」として日本人により営業されていた。その延長線上で、日本人が黒人に化けてこういった仕事をしていたと思われる。
 川端康成の傑作、『浅草紅団』(1930年出版)には玉ころがしが登場するが、この頃、浅草では玉ころがしが廃れかかっていた。
 田中英光らがボートの練習をしたのは隅田川である。田中は早くから浅草に親しんでいた。彼はロサンゼルス・ピアや遊園地を、隅田川や花屋敷と比べていたに違いない。
 全集の年譜には、田中はオリンピックの「閉会後、日本選手は、ヨセミテ公園、ハリウッド撮影所などを見学。八月十七日午後零時十分、七個のオリンピック選手権、十八本の日章旗を翻して力と意気を示した派遣選手団は、フィンランド選手一行と共に、郵船平洋・春洋(往路の第二陣が乗船、一万三0三九総トン)二隻に乗船、別れを惜しみつつ米国ロサンゼルスを離岸、帰途についた」とある。
 「七個のオリンピック選手権」というのは、7個の金メダルということである。その内訳は南部忠平の三段跳び、西竹一の馬術大障害、ほかの5個は全て水泳であった。金銀銅、全てのメダル18個のうち、何と水泳は12個もあった。
 『オリムポスの果実』では、フィンランドの陸上の監督が、主人公が思いを寄せる女性選手に手を出し、それが物語全体の進展に大きくかかわるようになっている。
 オリンピックから戻った田中英光は、兄の影響でマルクス・エンゲルスのシンパとなった。田中は昭和9年頃から、ドストエフスキーに影響された習作を書き始める。昭和9年のこの年、彼は同人雑誌に作品を発表する。昭和10年、田中は23歳で大学を卒業し、横浜ゴムに入社する。全集の年譜には、「四月、横浜護謨製造株式会社販売部へ入社、外地勤務を要請されて快諾、直に同社朝鮮出張所(京城府南大門通り二の一三三古河ビル)へ赴任。初任給は、外地勤務手当を含めて手取り約90円(現地人は18円程度)で、生活は楽であった。仕事は、工業用ベルト、タイヤ、ホースなどのゴム加工製品の販売で、固定得意先との折衝のほか、新規開拓して売込むセールスもやった」とある。
 昭和12年2月、彼は結婚し朝鮮神宮で式を挙げる。この年の7月に支那事変が勃発した。彼は応召し朝鮮京城府に配属される。この時、同じく従軍していた後の東京大学教授の土居寛之が、「破滅の萠芽」というタイトルで全集の第1巻の月報に次のように書いている。
 
 田中英光は昭和十三、四年の晋南作戦に参加しているが、この作戦では戦果も多かったがわが軍の犠牲も多かった。それは稀に見る激戦であったということが、われわれの中隊の語り草になっていた。あの激しい戦闘に彼は一兵卒として加わり、無事生還したのだと思うとき、その受継者として三年半にわたって晋南地区を転戦した私にとって、彼に対する懐かしさは、またひとしおのものがある。
 彼の戦歴に記されている蒲州、中条山脈、聞喜、平陸などの地名は、ことごとく私が通過し、または滞留した場所である。大酒飲みである大男の彼が、中隊の兵隊の加給品の酒をまき上げて、飯盒のふたに注いではガブ飲みしている有様が、ほうふつとして眼前に浮かんでくる。
 また人一倍女好きの彼が、転戦した各地で、本土や朝鮮から出張してきている慰安婦を買いあさっている姿も、私の目に浮かぶ。 ……中略…… 田中英光の京城時代の産物である『時々刻々』、『愛と青春と生活』、『酔いどれ船』などの作品を読んでいると、ほとんど息苦しくなるまでに青春期のあこがれと狂おしさとが原色の絵具をぶつけたように表現されており、その基調となって彼の生活を導いて行くものは酒と女でありそこには正しく彼の破滅の萠芽が見える。

  昭和15(1940)年、25歳の田中英光は復員し日本に戻った。職場復帰した彼は書き続けてきた『杏の実』を完成させ、三鷹の太宰治を訪ね、初めて対面する。
 この年に発表された『オリムポスの果実』は、12月に第7回池谷賞を受賞する。この賞は日本文学振興会が設置したもので、当時非常に権威があった。
 田中英光には、戦中の遊技場が登場する『曙町』という小説がある。これは昭和23年11月に出版された小説集『黒い流れ』(文潮社)に収録されているのだが、これがいつ書かれたかは不明である。『黒い流れ』の初出は昭和23年の雑誌『日本小説』の5月号である。
 『曙町』の内容は明らかに戦中であるが、小説の最後に戦後のことが書いてあるので、これは戦後に完成したものである。私はこの小説の舞台になった曙町を過去いくどとなく訪ねた。曙町の娼館は色ガラス、タイル張りが多く、私はそれらを自分の版画制作のソースにした。この町の近辺については、長谷川伸や、平成に入ってからはパチンコ店を経営する父親をもつ、柳美里が描いている。ここでは小説『曙町』より、遊技場の部分を紹介したい。ここで田中はルポルタージュの手法を用いている。そのため、何となく、川端の『浅草紅団』を思い起こさせる。

 敗戦直前の話である。
 東京の、玉ノ井、亀井戸に匹敵するものとして、横浜に、曙町という私娼窟がある。玉ノ井、亀井戸は、とあれ、東京都の外郭地帯にあるが、曙町は、丁度、東京の銀座と思われている、伊勢崎町という繁華街のすぐ真裏にある。
 そして昔から、横浜の地回りなぞからは、アケ町、学生、勤め人なぞからは、ABC横丁の愛称を貰い、秘密の繁華街を続けてきた。
 諸君がもし、その町にゆこうと思うならば、桜木町駅から、歩いて約十五分の短距離にあり、市電によれば、三ツ目の郵便局前でおりればよい。
     ……中略……
 一九四三年の終り頃から、表側の町の商店は、度々の企業整備に引っ掛り、種々の新しい経済法規に縛られ、公けな商品の流通は止まってしまうし、男たちは次々と徴用や出征で出て行ってしまうと、呉服屋といわずガラス屋といわず書画屋といわず、配給所として残った商店以外は、全部、店の戸を下ろすよりほか、止むを得なかった。
 食堂、喫茶店、酒場のような店はそれでも、闇同様の高い値で、昔なら誰も飲み食いせぬだろうと思われるようなまずいものを売りながら、比較的後まで生き残っていたが、これもしまいには情実的な販売だけになり、その僅かな品物さえ軍や工場や闇に流れるようになると、それも長くは続かなかった。
 裏通りの怪しげな酒場や屋台店になると、これは焼ける半年ほど前頃まで残っていて、たまには威勢のいい喧嘩や、女たちの嬌態も眺められることもあったが、闇の酒を更に闇値で飲ませたりするこの商売も、だんだん量的に自然に衰えて行って、しまいには一晩一人かせいぜい二人の客で、それでも昔以上の利益を上げることは上げていたが、これも最後には全く喘ぎ喘ぎの商売になっていた。
 このほか、射的、ポケット玉、楊弓などの遊技場となると、これは殆んど焼ける時まで生き残っていたが、そうした余裕のある客は日毎に減る一方で、馴染みの海軍の下士官たちや、少なくなった土地の地回りなどが、たまに店先を賑わすほかは、女たちも諦めて、店先にさえ坐っていなかった。
 
 すでに国家総動員法が昭和13年から施行されている。小説に「一九四三年の終り頃から、表側の町の商店は、度々の企業整備に引っ掛り、種々の新しい経済法規に縛られ、公けな商品の流通は止まってしまうし」とあるのは、昭和18(1943)年に施行された「国内必勝勤労対策」のことなのではあるまいか。これは男子の17職種の就業を禁止し、代わりを女子勤労挺身隊が行う法令である。
 だがしかし、横浜では「射的、ポケット玉、楊弓などの遊技場となると、これは殆んど焼ける時まで生き残っていた」とある。つまり、遊技場は私娼窟の一部として戦災を受ける最後まであったのである。


◎玉の出るパチンコと七七禁令

〈bP 鈴富商会社長、上野鈴吉の証言〉

 鈴富商会の上野鈴吉は昭和27年1月に発行された『パチンコ必勝讀本』の中で、次のように語っている。

 上海事変の直後には、上海や戦争中は北京にも渡り一ケ年位特に上海では二千台近い台数で七カ所で営業をやつたこともありました。
 メダルが現在のようにボールとなり、景品がアメとなり、菓子自働販売機となつたのは、昭和十二年頃の再許可の時代でした。この当時の機械は「のんきな父さん」のものが最初であり、これを菓子屋さんに貸付けたり、売つたりする程度のもので、ほんとうの駄菓子屋の子供相手のものでした。
 然し他の同業者が少なかつたためと、機械が他に比較して故障も少なかつたので店では良く売れました。
 こんな具合で七七禁令に依り、金物の統制に依る製造販売禁止になるまで、パチンコは必ず店の営業種目にあり、関西ではパチパチ、名古屋ではパチンコ、東京ではガチヤンと云ふ愛称を以つて、常に大衆と共に暮してきました。

 鈴富商会社長の上野鈴吉は、昭和7年の上海事変の直後、自ら上海に渡ってパチンコ営業を行ったと語っている。「戦争中は北京にも渡り」というこの「戦争中」とは昭和12年の日中戦争のことであろうか。上野のこの発言は、パチンコが日本から中国に渡っていたことを示している。はたして本当であろうか。養子の、戦後名古屋鈴富を経営していた上野金光(かねみつ)は、「事実だが、パチンコ機『二千台』はオーバーなのではないか」と語っている。戦後、東京の鈴富工場長だった遠藤和美(かずよし)は、上野鈴吉本人から中国で営業していたという話を聞いている。
 上野鈴吉はメタル式パチンコのメタルが現在のように玉になった時期を昭和12年と語っている。なぜ玉になったかといえば、メタルが代用貨幣(トークン)で、本当の1銭と見分けがつきにくいものであったからである。
 警察当局は、景品に細かい指示を加えた上、玉と景品とを交換することで許可した。
 上野は「七七禁令に依り」と書いているが、七七禁令は昭和15年の7月7日に施行されている。
 上野は「七七禁令によりパチンコの製造販売が禁止されたため、遊技器の仕事は縁が切れましたが、当時十六人位の店員を擁していましたので場所が蔵前である関係上、玩具の卸に不正得転向しました。案ずるは生むより安くの諺の通り、企画にさえはまれば、どんどん公定で売れるのですから楽な商売でしたが、根が遊技器の製造販売に従つていました関係上、些か淋しかつたです」と語っている。東京の鈴富は昭和15年以降、終戦までの5年間、玩具の商売をやっていた。東京では遊技場の経営は成り立たなかったようだ。
 七七禁令が出ても四国ではパチンコの営業をやっていたという記事が月刊『プレイグラフ』(プレイグラフ社)の「パチンコのルーツを探る(1988年〜1989年)」というシリーズの中に載っている。これによると四国では太平洋戦争に突入してもまだ営業を行っていたという。以下、引用する。

 16年に入って「高知玉弾遊技組合」を設け、パチンコはメタルを中止し、ベアリング玉に切り替えている。このころは不況風が吹いていたが、一人パチンコ店だけが盛況で、朝の8時ころからにぎわい、なかには弁当持参という客もみられ、これが批判を招いたりしたという。
 この年の12月に太平洋戦争の幕があき、戦時色を強めていくが、 ……中略…… パチンコ店は防空幕を二重して営業を続けた。 ……以下略

 終戦を迎えた鈴富商会の上野鈴吉は、早速、遊技機の製作にとりかかる。『パチンコ必勝讀本』には、次のようにある。

――終戦と共に早速、電気マーブルや、パチンコの製造に着手しましたが、乱れた世の中のこととて他に大手を振つて賭博の出来る時代故、今日まで大してかえりみられなかつたですが、二十一年頃からポツポツ売れ始め二十三年には東京でも六月頃から八月頃、相当流行し始めましたが、現在とは賞品の率、即ち、玉の入る具合が全然違つてました。二割位しか這入らないようにしてあるため、直ぐに「パチンコはつまらない」と云われ二ヵ月位で駄目になりましたがその後名古屋では、五割から六割位の賞品率であつたため、今日の隆昌をみるに到つたのです。

 上野は、戦後まもなく、パチンコはそれほど流行っていなかったと語っている。彼はその理由を出玉にあるとしている。
 上野がいう「大手を振って賭博」というのは、非合法のルーレットの「デンスケ賭博」や「ビンゴゲーム」等々を指す。何しろこの時代、国家が戦後復興と銘打って、当たるとすぐ現金化できる三角くじを発行していたのである。田中英光はこの時代を克明に記録している。パチンコ遊技場は、タバコやキャラメルが景品だったので、敗戦まもなくはそれほど目立つ存在ではなく、文学や映画に登場するのは、1949(昭和24年)頃からである。

〈bQ 敗戦と無頼派〉

  昭和20年8月15日、敗戦。9月中旬、田中英光は横浜ゴムを人員整理のため退社させられる。21年には日本共産党に入党し、沼津地区の委員長となった。酒を断ち献身的に党活動を行った。だが、彼が取り組んだ国鉄ゼネストはマッカーサーの総司令部に中止させられる。この直後から彼は再び酒を飲み、睡眠薬中毒になっていく。彼は昭和22年に脱党する。この年、田中は妻子がありながら、新宿で、ある女性と知り合い、同棲先の新宿区花園町13のその女性の家(6畳と3畳間のバラック建て)でも原稿を書くようになる。
 この当時の無頼派作家といえば、坂口安吾、太宰治、織田作之助等である。島田昭男は『田中英光全集 11』の「解説」で「無頼派とはもちろん文学方法上の呼称ではなく、一般的にはそこに包括されている文学者たちの実生活上の態度、姿勢、行動の反俗的無頼性をとらえて呼んでいるわけであり、言葉をかえていえば、それは生活無頼の文学にたいする一般的呼称ということになろう」と書いている。
 敗戦当時の無頼派は、酒を飲み、ヒロポンを打ち、家庭をかえりみない破滅的な生活を送らないと良い小説が書けないと思っていた節がある。島田は当時の彼等の年齢について、「戦争がおわったとき田中は三十二歳であった。他の無頼派文学者のうち坂口安吾は三十九歳、太宰治は三十六歳、織田作之助は田中と同じく三十二歳、つまり一様に『三十代文学者』」と書いている。
 戦争という大きな悲劇と絶望が終わった時、30代の無頼派の作家達は、「人間とは何か」という文学上最大のテーマにぶち当たる。彼等は、自分を限界まで追い込むことで何かを得ようとした。田中英光にとってそれは、ルポルタージュの目で社会をとらえることであった。
 『曙町』は入党前のサラリーマン時代の自伝的作品と思われる。田中はこの小説の最後を次のように締めくくっている。

 ちなみに曙町は横浜でいちばん先に復興した。また、その戦禍の前後、吉田橋付近には、行方不明の船員の家族や、出征兵士の妻などが、きわめて安価に淫を鬻ぐとの噂も高かった。これはその頃の物語だ。

〈bR 田中英光が記録した「射的屋&パンパンダンサー」〉

 『曙町』は小説集『黒い流れ』に納められているが、この『黒い流れ』には、これまた初出誌不明の『狐福荘』が収められている。この小説の中には、戦後まもなくの射的屋が描写されている。小説のタイトルの「狐福荘」は、敗戦後、雨後のタケノコのようにできたダンスホールの一つである。小説には「伊豆M海岸の隣町、といっても山越えで小一里はあるN温泉に、狐福荘という名前のキャバレーが」とある。この小説の主人公がバスの広告を見ると、「『紳士淑女の高級社交場、夢見る狐福荘』と黒字で大書された横に、赤字でやや小さく、『ダンシング・フォックス・パレスダンサー急募』と書いて」あった。
 では『田中英光全集 6』の『狐福荘』より射的屋のシーンを引用する。

――それから、また共同風呂に入ったり、射的屋に飛込み、バカに好調で百発百中、四十円で、立派な人形を一つ稼ぎ、それを君代の土産にしたり、或いは小料理屋に飛込み、白首を冷やかしたりしている中、瞬く間に三時間経ってしまった。
 それで享吉は、君代の土産にした人形の箱の中に、チョコレートを二枚買って同封し、駆けるように、狐福荘に急ぐと、すぐ玄関に出てきてくれた君代に、「ハイ、お土産」とそれを渡し、ひどく喜んでくれた君代を両手で胸に抱きながら階段を上がって、それから、ふたりで愛し合った。なにもかにもが上々で、享吉は全くの夢見心地だった。彼女は娼婦に似合わず新鮮な肉体をしていた。 ……中略…… 君代は岐阜の女で、結婚して三日目に夫が出征して戦死し、戦後、東京に出ていたが、初めは真面目にダンサーの積りで、ここに来た。それでもここの女将は可愛がってくれるので、嫌な客は取らなくても好い。 

 第二次世界大戦後の進駐軍時代、連合軍の帰還兵士の楽しみは、女とスウィング・ジャズでダンスを踊ることであった。田中は青春時代の思い出からジャズダンスをフォックス・トロットで踊ると解釈したようだ。だが、この頃の流行のダンスはジルバであった。兵隊はキャバレーでジルバを踊った後、女とホテル等に行った。田中は射的をした後に、戦争未亡人となったダンサーの女の下に向かった。パンパンは不特定多数の相手をする娼婦で、ダンサーとは異なる。キャバレー狐福荘の女将は、ダンサーに売春を無理強いしなかったようだ。


〈bS 『ザ・パチンコ―パチンコ台図鑑―』の業界最大の誤報〉

 享吉というのは田中英光の分身である。
 私は昭和17年に遊技場が禁止されてから敗戦までの間、本質的には遊技場は何も変わっていないという、ごく当たり前なことに気づかずにいた。戦後のパチンコは、戦争終結後の進駐軍時代、無政府状態の中、戦前に作られたパチンコ台を使って営業し、復活した。
 『ザ・パチンコ―パチンコ台図鑑―』(リブロポート、1985年)には、「宝くじ」というパチンコ台が載っている。この台について同書には、「昭和21年から登場した『復興宝くじ』からヒントを得たこの機械は盤面上部に0・1・2・3の表示があり、入賞すると上の窓に旗が立つ。旗が4本揃うと、特別賞として50個の賞品玉が出る。盤面がブリキで出来ており、パチンコ台の重戦車というイメージである。(昭和22年・正村商会)」とある。特別賞品玉50個というのは驚異的な出玉である。名古屋が戦後いち早くパチンコ産業のメッカとなったのは、新しい台を工夫し、射幸性を高めたからであった。
 だが、「宝くじ」のパチンコ台は正村商会が作ったものではない。戦後を代表するパチンコの釘配列、「正村ゲージ」を考案した正村竹一は、「釘の神様」「パチンコの神様」と呼ばれているが、彼の正村商会がパチンコ台の製造を始めるのは、戦後しばらくしてからである。同書は、戦前のパチンコ台に、正村商会のプレートが貼られたものを正村商会製として載せている。さらに「正村ゲージ」の記述についても、業界最大ともいえる大きな間違いを犯している。同書は「正村ゲージではない正村商会のパチンコ台」を、典型的な正村ゲージとして載せているのである。
 『ザ・パチンコ―パチンコ台図鑑―』は日本初のパチンコの図鑑で、当時、トップにいた業界人、パチンコに詳しい文化人を総動員している。にも関わらず、なぜ、このような馬鹿げた、正村製パチンコ台と正村ゲージの記述になったのか。「遊技通信」や「プレイグラフ」等の業界誌が、これまで真面目に取り組んできたパチンコの歴史研究が、同図鑑のため、改ざんされてしまった。私が本ホームページで語りたいのは、この改ざん部分で、ここを覗くと自らの歴史を軽視する業界の体質が見えてくる。

〈bT 田中英光が記録した「闇市&三角くじ」〉

 戦後のパチンコは闇市から出発したといわれている。
 「復興宝くじ」はパチンコ台になったが、田中英光の小説には闇市のパチンコ屋は出てこない。だが彼は、戦後の闇市の三角くじについては記録している。三角くじが登場する小説『爛酔』は、昭和23年の雑誌『大都会』4月号に発表された。全集の年譜によると、この年の1月上旬、田中英光は、「太宰治の失踪を聞き、カルモチンを大量に服用して泣き伏す。薬の切れぬまま三鷹に向い、『千草』で豊島与志雄から、山崎富栄も行方不明であることを聞き、玉川上水に出、水路に飛び込もうとしたが、制止される。十九日、死体を発見、通夜で、ウイスキーとカルモチンをあおり七転八倒して号泣し、意識を失う。夜半、送られて花園町の家にもどる。この後、アドルム、カルモチンの常時服用量が増え、鎮静催眠用と同時に興奮剤(酒の酔いを増す)として用いた」とある。この後、『爛酔』が発表された。
 『田中英光全集 10』の『爛酔』より引用する。

 今年、三十五歳の島崎は、第二次世界大戦で、十年近くも軍隊に引っ張られていた。最後の勤務地は、九州の南端だったので敗戦後半月ばかり後には、恙なく、二宮と小田原の中間の漁村、前川村に疎開していた妻子のもとに、大きな復員袋をしょったまま、帰りつくことができた。
     ……中略……
 そうして、一九四七年の正月、彼は、薄暗いうちから、蜜柑十貫目ばかりを担いで、村をでると、いつも行く、蒲田、川崎などの京浜沿線がなんとなく厭で、急に思いつき、新宿の闇市に、ひょっこり出てみた。すると、表側の市場は、経済警察の手入れの最中らしく、彼は、聚楽辺りでその不穏な空気を感じ、クルリと廻れ右すると、ガードをくぐって駅裏にでた。彼は、そこにも一群の闇市のあるのを知っていたが、なにか不気味な感じなので、そこを敬遠し、電車通りにでると、夢中になり、都心から遠ざかるようにして、中野のほうに路を急いだ。

 するとまもなく、島崎は新築の家の工事現場を眺めていた男に呼び止められ、担いでいた蜜柑をすっかり買ってもらい、400円といういつもの倍の利益が上がった。
 さらに『爛酔』より、この先を引用する。

――先刻の手入れの後始末にも興味があり、和田組のマーケットのほうに、ひょこひょこ出かけていった。すると、聚楽裏の広場で、その頃一枚十円の三角籤を売っている。彼は、その日の幸運に、もう一度、運だめしがしたくなり、思い切って、一枚買うと、なんと、それが五千円の当り籤だった。そこで、彼は現金を受取ると、少し頭がボウとなった。酒と女の誘惑が、彼の、全身をギュッと、鷲國みにして、放さず、彼は、五百円だけ、酒を飲み、あとの五百円で、憧れの、パンパンガールを買いたいと思った。家には、四千円の金を持って帰れば、一月は遊んでも暮せる。こうした千載一遇の機会に、どうしても日頃の欲望を果たしたいと思い、彼は、まず、半端の二、三百円の金で中華料理にいき、腹を作り、それから床屋にゆき、××座五階のエロショーに飛込んだ。その中には「歌麿幻想曲」という、美女が、殆んど全裸体になり、歌麿の、鮑採りの如きポーズをして、桃色のスポットライトに照らされるという、煽情的な場面があり、彼は、ひどくドキリとした。

 新宿の闇市の詳しい描写には驚かされる。三角くじで当てた主人公の気持ちは筆者田中の願望であったろう。田中はこの原稿を書いていて、気持ちがよかったのではあるまいか。田中は職業作家のよい面を出し切っている。
 この頃、田中は生活のためにカストリ雑誌におびただしい数の作品を、薬とアルコール漬けになって乱作していた。昭和24年、彼はついに、新宿花園町のバラックの家で、同棲していた女の下腹部を包丁で刺し、四谷署に逮捕される。
 彼は自殺の少し前に新宿でドストエフスキー原作の『罪と罰』を見た。この映画は1936(昭和11)年のフランス映画である。『罪と罰』は本国のソ連だけでなく、戦前、フランスでも作られていた。監督はピエール・シュナールでソーニャにはマドレーヌ・オズレーが扮した。『罪と罰』は19世紀の世界文学の最高峰の一つである。ドストエフスキーはギャンブル狂であった。田中は死ぬ前に、懐かしの名画を見たのであった。
 3日後の11月3日、彼は太宰治の墓の前で自殺した。


◎玉の出る「OLYMPIA」のパチンコ台

 パチンコ台から玉が出たのは、1937(昭和12)年のことである。パチンコ台から玉が出なかったら、パチンコは現在に至らなかった。
 日本のコリントゲームの元は、イギリスのコリンシアンバガテールで、さらにその元はフィンランドのバガテール、「フォルトゥナ」である。ロシアの大公国だったフィンランドは、ロシア革命に乗じて独立。豊富な森林資源を生かし、地場産業の振興と発展のためフォルトゥナを誕生させた。従って、フォルトゥナは、革命ロシアのユートピア思想、「ロシア・アヴァンギャルド」の夢のかけらなのである。
 コリントゲームがパチンコの元といわれるのは、パチンコがスマートボール(当時はコリントゲームと呼ばれていた)の玉の出るシステムを真似たからである。玉の出るパチンコは、コリントゲームとスマートボールがなければ生まれてこなかった。
 
 ここで、玉の出る、オリンピックにちなんだパチンコ台をご覧いただく。
 以下、PDFをお読みいただきたい。


「OLYMPIA」のパチンコ台



 今日はクリスマス、今年も残すところ、6日あまりとなった。
 2014年は、「日本パチンコ伝 第1章 バガテール(玉ころがし)の伝来」から始める予定である。
 皆様、よいお年をお迎えください。  
                             2013年12月25日



  
           

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