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〈日本機械学会論文発表〉

◆日本機械学会第1回論文発表 
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〈図版〉

◆ 「日遊協」2011年10月号掲載、論文発表記事
「遊技通信」2011年11月号掲載、論文発表記事

 
〈著書〉

『パチンコ誕生 シネマの世紀の大衆娯楽』
『戦前からあった台湾のパチンコ』


更新情報


プロフィール



  パチンコは日本で生まれた。スマートボールも日本で生まれた。この二つは相互に絡み合いながら発展し、第二次世界大戦を迎える。
 2008年に上梓した拙著『パチンコ誕生 シネマの世紀の大衆娯楽』(創元社)では、パチンコの元の外国のウォールマシンが、日本に伝来し、コピーされ、パチンコに進化していった経過を書いた。だが、スマートボールとパチンコの関係等は、紙面が足りず、記していない。
 本ホームページの「日本パチンコ伝」では、未発表を含め、香具師(やし)の「玉ころがし」に始まる「手打ち式パチンコの全歴史」を綴る予定である。
 パチンコは、伝来した無人の「ウォールマシン」を、香具師が有人のパチンコに変え営業したことにより始まった。ウォールマシンについては、日本機械学会第1回論文発表をご覧いただきたい。
 香具師の露店パチンコ営業に最も似た、それ以前の香具師営業といえば、「射的」でも、「輪投げ」でもなく、「ブン廻し」でも、「糸引き」でも「金魚すくい」でもない。それは日本版バガテール、「玉ころがし」である。







   第1章 バガテールの日本伝来と発展




 「第1章 バガテールの日本伝来と発展」では、江戸時代、日本に伝来したバガテールが、日本で「玉ころがし」となり、明治時代、海外にまで進出し「ジャパニーズ・ローリング・ボール」として広まったことを記す。
 バガテールの日本伝来については、「日本にカジノができたら、パチンコはどうなるのか?その3」で、すでに紹介した。バガテールは大小様々なものがあり、それが西欧ではウォールマシン、アメリカではピンボール、日本では、玉ころがし等へと発展した。「その3」では、バガテールが日本を含め、世界でどのように発展していったかの一覧図を載せた。この図と「その3」の「最後の大型バガテール」を照らし合わせながら、第1章を読み進めていただきたい。



第1項 「ビリヤード(玉突き)」と「バガテール(玉ころがし)」の
     起源と日本伝来


●玉突きの始め

 明治の一大百科事典、石井研堂著『明治事物起原』(筑摩書房、1997年)には、「玉突きの始め」が載っている。「玉突き」とはビリヤードのことである。ビリヤードとよく似たゲームにバガテールがある。ビリヤードとバガテールはほぼ同じ歴史をたどっていたが、バガテールがコリントゲームになる頃、すでにバガテールがピンボールとしてアメリカで完成され、バガテールはコリントゲームのような卓上のゲームとして現在にいたった。コリントゲームは日本だけの呼び名で、外国ではバガテールまたはピン・バガテールと呼ばれている。
 コリントゲームは現在、日本の小学校でも工作の教材として使用されている。片やビリヤードは1996年にIOCに認可され、1998年のアジア大会から正式種目となった。その内にオリンピックに登場するかもしれない。
 ポール・ニューマンの出世作、映画「ハスラー」(1961年、日本公開は1962年)では、ビリヤード場にコインマシンのピンボールが置かれていた。ビリヤードとピンボールは、今も世界中に肩を並べて君臨している。この二つが日本の大衆に知られるようになるのは、いつ頃であろうか。
 『明治事物起原』より、まず、「玉突きの始め」を引いてみよう。

 今日都下の玉突き場には、撞球の看板を見ること多し。これは支那風の名を輸入せるものにて、明治時代には大抵、「玉突」と書けり。万延元年『玉虫日録』巻一に、「酒店に突玉の戯れあり、ビレタイホと云ふ、一間許の臺 を設け、四隅或は中程に空孔を穿ち、其上に彩玉四つをおき、杖を以て其玉を突き空孔に入る、是にて勝敗を定む と云ふ」とあり、同書のバタビヤ上陸の条には、「此の店は酒を売る所にて、家の中央に、ビレタイホと云ふ玉突 の台抔ありて、二三の男子一人の婦人ありて周旋す」とあり、突玉、玉突、やうに書けども、洋名は同一なり。開 成所編『英和対訳袖珍辞書』にも、すでに「Billiard,玉突き遊び」の訳あり、玉突の二字は古し。

 万延元年は1860年である。「四隅或は中程に空孔を穿ち」というところから推察すると、ビリヤードも、バガテールも、共に「突玉」と呼ばれていたようだ。
 ビリヤードは横浜より先に長崎に上陸したといわれている。この『明治事物起原』のこの項にはさらに次のようにある。

 十一年十二月二十日、右大臣布告、地方税中雑種税、諸遊技場目中に玉突、大弓場とあり、十二年十月十四日、 中警視安藤則命の達し、「玉突並に吹矢場開業者免許状鑑札」のことあり、玉突き営業に関するはじめての官令な らん。

 11年、12年は、明治を指す。下図は「玉突並に吹矢場開業者免許状鑑札」の布達である。明治13(1880)年発行の「東京警視本署布達全書」より転載した。上段の右が表紙で、左が目次の項目である。その下は、その詳細の頁で、赤線は私がつけた。


     明治12年の「玉突並に吹矢場開業者免許状鑑札」の布達






 表紙には、「警視庁」ではなく「東京警視本署」「警視局」とある。
 警視庁は明治7(1874)年に、東京府(後に東京都)の警察を管轄する内務省の地方官庁として生まれた。だが、各地で士族反乱が発生し、地方の警察力では対処できなかったため、政府は明治10(1877)年1月に警視庁を廃止、全国の警察を一元化し、内務省に警視局を置き、「東京警視本署」を設置した。上図の布達は、明治12年、警視局時代に出されたものである。国内の治安が安定すると、明治14(1881)年、「警視庁」が再び設置された。
 石井研堂が記した通り、明治12年に警視局より「玉突並に吹矢場開業者免許状鑑札」が官令として出され、これにより、玉突きや、吹き矢の遊技場営業には、税金が義務づけられた。
 昭和9(1934)年発行の山田浩二著『たまつき圖解』(博文館発行)には、ビリヤードの歴史について、次のようにある。

 先年日勝亭で開かれた撞球展覽會會場に、明治十二年の刻印ある玉樂亭の球場の鑑札が出陳されてゐた。玉樂亭  は現在も麹町元園町に開業してゐる。現在の當主は三代目といふが日本で一番古い歴史をもつ球場である。

 玉樂亭はこの本が書かれた50年前から存在しているのである。明治12年は上記の「玉突並に吹矢場開業者免許状鑑札」の年と一致している。明治12年以前にビリヤードが流行していたことが、これによりわかる。ビリヤード場は、玉樂亭から始まったといってよいだろう。
 ビリヤードはプライドが高い競技であったので、50年目にして、撞球展覧会まで行われていたのであった。
 『横浜スポーツ百年の歩み』(企画・編集横浜市体育史企画刊行委員会、発行横浜市教育委員会)によれば、「横浜における玉突きのルーツを探ることはさだかでないが、他のスポーツと同じく比較的早くから行われていたと考えられる。明治8年(1875)に、英仏の駐屯兵が横浜から引き揚げる際に、外国人の町会所で玉突遊戯と舞踊会が行われているからである」とある。その後玉突きは、横浜市民の間にも普及していく。以下重要な部分を引用する。

 ――明治三一年には、県庁より遊技(室内射的、大弓、半弓、揚弓、玉突、玉技、投扇、玉転、吹矢、魚釣等)の公開営業場取締規則が発布されるほどであった。

 ここに「玉転(玉ころがし)」が入っていることに注目したい。
 パチンコは、各地方自治体の警察に開業届けを出し、許可を得て営業しているのであるが、明治31年に出されたこれは、神奈川県の遊技場の取締規則である。
 下図は、その時、出された県令である。「玉突、玉投、玉轉」の赤線は、私がつけた。
 第1条の遊技は、「室内射的、大弓、半弓、揚弓、玉突、玉投、投扇、玉転、吹矢、魚釣其の他」である。『横浜スポーツ百年の歩み』には、「玉技」とあるが、これは明らかに誤植で、本当は「玉投」である。
 「玉転」は「玉ころがし」と読む。伝来したバガテールは「玉ころがし」と呼ばれた。おそらく「玉投」は、キューで玉を突いていた玉ころがしが発展し、手で玉を投げるものになったと考えられる。手で玉を投げる競技といえば、ボウリングだが、すでに外国人居留地にはボウリング場があった。だが、日本人が日本人客を対象にしてボウリング場を営業したという記録はない。従って、「玉投」はボウリングとは考えにくい。











明治31年の神奈川県令による「遊技場取締規則」

 
 上図は、明治31年に出された神奈川県の「遊技場取締規則」の第2条の続きである。
 第2条には、遊技の名称と、屋号、遊技場の構造等の図面、遊技料を提出するようにと記されている。以下、第17条まで、細かい規定があり、第18条では、「明治三十一年八月三十一日マテニ此ノ規則」の手続きをするようにとある。この県令により、明治22年6月に出された県令は廃止とあるから、明治22年には、神奈川県にはかなり各種の遊技場があったと考えられる。
 バガテールはパチンコの起源のもっとも有力な一つである。バガテールを立てコインマシンにしたところから、パチンコの歴史が始まった。昔のビリヤードの技法書は古書市や古本屋で簡単に手に入る。だが、日本語のバガテールの本は出版されておらず、玉ころがしの技法書も出版されていない。玉ころがしは決まったルールがないので、上達法を書物にあらわすほどのスポーツ性がなかったのである。
 今日、日本におけるコリントゲームや玉ころがしを知るには、残された絵や文学作品にたよるしかない。古いビリヤードの技法書には、もしかしたら、それらについて何か載っているかもしれない。
 古書市で装丁が美しいので思わず手にとってしまったビリヤードの本を紹介する。

玉乃一熊著『撞球指南』の表紙

 上図は玉乃一熊著『撞球指南』(民友社)である。1915(大正4)年発行らしくタイトルの文字にアール・ヌーヴォーの名残りがある。タイトルを囲む長方形がビリヤード台である。私がビリヤードの技法書を見ていて常々感じることは、ビリヤード台を真上から写し、赤と白の玉を任意の線で結ぶと見事にアール・デコのスタイルが生まれてくることである。アール・ヌーヴォーは1900年のスタイルといわれ、アール・デコは1925年のスタイルといわれている。アール・デコ全盛期の絵や写真を見ると、見事にビリヤードがアール・デコの風俗にはまっていることがわかる。ビリヤード台のラシャはほとんどが緑色のため、キューを打つ黒のタキシード姿が見事にはえる。この緑はボウリングが野外競技だった頃の芝生のボウリング、ローンボウルズをイメージさせる。 
 『撞球指南』の序文を前述の山田浩二が書いている。その頁に古い新聞の切抜きが挟み込まれていた。そこには山田浩二の写真と「●『不思議な日本人だ』=米人を驚かした撞球会の天才山田浩二氏=」という見出しがあった。記事を読むと山田はドイツ、フランス、アメリカの撞球会で活躍し、一流選手と争い、その名をとどろかしたようである。「今の所世界の第一人者ホップに対して勝味はないが彼は将来に於て、必ずホップを打破り世界の選手権を日本にもつて帰るに相違ない」とある。さらに「恐らく彼は競技中 耳の側で鐵砲を打たれても平氣で、キューを誤らぬであらう」と書かれている。当時の精神主義が新聞からうかがえる。


●ビリヤード(玉突き)とバガテール(玉ころがし)

 著者玉乃一熊は、『撞球指南』の1頁目、第1章でビリヤードの歴史を書いている。これによると、シェイクスピアがその戯曲の中で、2000年前にクレオパトラがbilliardsをやっていることを書いたため、英国の撞球家はそれを起源にしているとある。これは何を意味しているかといえばシェイクスピアの時代にビリヤードが盛んに行われていたということである。シェイクスピアは1564〜1616年の人である。「クレオパトラが玉を突く」とは『アントニーとクレオパトラ』の戯曲の中でのことである。その中にクレオパトラの“Let's to billiards:come,Charmian(「さあ、ビリヤードをやりましょう、おいで、チャーミアン」)”という台詞がある。チャーミアンとは侍女の名前である。昭和33年発行の岩波文庫の『アントニーとクレオパトラ』ではビリヤードではなく「球突き」と本多顕彰はルビまでふって訳している。この翻訳の以前には、坪内逍遥が「球戯」と書いて「たまつき」とルビをふって訳した。
 大正14年に発行された東山昌川著『玉の撞き方』(博進堂書店)によれば、クレオパトラが突いたこのゲームをビリヤードとはいわず、「球ころがしのごとき」と表現している。以下現代仮名遣いにして引用する。

 ――撞球というものも随分古い起源を持っています。クレオパトラが撞いたという球戯がどんな種類のものであったかは、全く今日わからないのですが、球撞きと言ってもそれは恐らく、球ころがしのごときものであったろうと昔の学者は言っています。その後撞球として現れたのは、十四世紀末葉、フランスにおいてであって、その頃の王チャーレス九世などは非常な好球家であり、その従者ヘンリー・デリニエーなる人が、この遊戯の発明者であると言い伝えられています。

 東山昌川は「球ころがし」という名称を、ビリヤードと同じ位知られているという前提で使っている。東山が玉ころがしをビリヤードに比べ、レベルの低いゲームとしているのが「ごとき」という言葉でわかる。東山がこれを書いたのは大正14年であるが、玉ころがしは昭和に入っても営業されている。玉ころがしはバガテールのことである。東山はバガテールを知らずに、玉ころがしを語っているのである。
 玉乃一熊は、『撞球指南』で、ビリヤードは初め、「盤の形なども一定せず、盤の四隅に球を堕して入れる穴があつたり、また盤の中央に穴のあるのもあり、盤の形は楕圓形や、正方形や、長方形の隅を切り取つたものなどで、クッションなども、唯木材の枠であつたのである」と書いている。「盤の中央に穴のあるのもあり」は、石井研堂が記した万延元年の『玉虫日録』の「突玉」と同じである。また玉乃一熊は、キューについても「以前は球を撞くのでなく、球を打つので、短い曲つた杖のやうなものを用ひたのが、之も亦後には眞直の『キュー』と變じた」と書いている。これらはビリヤードよりもバガテールに近いゲームである。
 名称のみで考えると、バガテールは伝来しなかったということになるが、実際にはバガテールは、ビリヤードの中に括られて伝来していたのである。
 玉乃一熊はビリヤードの一種でポケットのない盤上で玉に玉を当てるカロム(Carom)ゲームを、「一千百七十五年に佛國で始めたのが抑々の嚆矢であつて、つまり佛國人が三ツ球ゲームの祖先」と書いている。
 玉乃一熊は日本における撞球場は明治4年の東京の加賀町を始めとし、2番目を京橋の精養軒としている。明治6年には神田の西洋料理店萬代軒に撞球場ができ、その12年後には九段に、横浜の五番館クラブホテルからビリヤード台を買い入れて開業した者もあると書いている。また、明治8、9年頃には熱海にもでき、さらに東京の土橋の二葉町にあった東京亭という球技場が、私の地元、横須賀に移転して東京亭の名で営業していたとも書かれている。明治12(1879)年位までには、ビリヤード場はその他にもたくさんできている。
 山田浩二が東京の玉樂亭が日本で一番古い歴史をもつと書いているが、本が書かれたのが昭和9(1934)年なので、その頃には老舗がなくなっていたと推察できる。警視局が明治12年にビリヤード場の鑑札を出す頃には、すでにビリヤードは大流行だったのである。

●ビリヤード(玉突き)とバガテール(玉ころがし)の日本伝来

 山田浩二も玉乃一熊も、ビリヤードの日本伝来は嘉永・安政年間(1848〜1860)の長崎出島と記している。
 『明治事物起原』では、ビリヤードの日本の嚆矢は万延元年(1860)となっている。いずれにせよ年代に多少のずれがあっても、ビリヤードは、オランダ人により長崎の出島に持ち込まれたのが最初と考えてよいだろう。





 


川原慶賀作蘭館絵巻」の中の「球突き図」


 上図は、長崎歴史文化博物館収蔵の川原慶賀が描いた「蘭館絵巻」の中の「球突き図」である。この絵のビリヤード台は、隅に6個の穴がある。競技しているのはオランダ人で、それを日本人の着物姿の遊女二人が見ている。
 ここに描かれた台は今日のポケットビリヤードとほとんど変わらない。盤面には緑色のラシャも張ってある。キューも現在と同じまっすぐなもので、突き方のスタイルも同じである。キューは壁に7本かけられているが長さはそれぞれ違う。この「蘭館絵巻」には、他にシーボルトと子供のお稲を抱くお滝が描かれた場面もある。シーボルトは1823年〜1829年在日していることから、この絵は1820年代のものではないかといわれている。これによりオーソドックスなビリヤード台が1820年代に日本に伝来していた可能性が生じる。明治元年は1868年であるから、ビリヤードが伝来したのは、江戸後期で、幕末とはいい難い。
 下図は、「日本にカジノができたら、パチンコはどうなるのか? その3」で紹介した、日本遊技関連事業協会の広報誌「日遊協」に連載した折、使用させていただいた長崎歴史文化博物館収蔵の「漢洋長崎居留図巻(阿蘭陀屋敷)」である。




 
 図録『長崎県立美術博物館所蔵作品選 歴史と文化編』(長崎県立美術博物館編集・発行、1995年)の解説には、この図巻は、筆者不詳、江戸後期とある。さらに巻子紙本着彩とあり、サイズは35.4×322.0pとある。ここに載せた図は、3メートル以上ある巻子の一番最後の絵の一部分を拡大して転載したものである。
 ここに描かれているビリヤード台の盤上には、ゲートボールのような関門がある。また、キューは持ち方からいって直線の棒ではなく、前述の玉乃一熊の「曲がつた杖のようなもの」である。このビリヤード台とそっくりな絵がニューヨーク、メトロポリタン美術館の資料にある。それは17世紀のフランス貴族がゲームをしている風景である。また、メトロポリタン美術館には、同じような台でルイ14世がゲームをしている絵もある。
 ビリヤードは様々な変遷をたどって今日にいたっている。現在もビリヤードのプレイの仕方は様々あるが、ビリヤード以上に制約がなく、いろいろな形に変化していったのがバガテールである。バガテールは盤上に障害物が置かれていたものもあるし、置かれていないものもある。実はこの障害物がパチンコの役物(ヤクモノ)と関係があるのだ。ビリヤードは貴族の間で流行したが、形にとらわれずに大衆の中に入り込んでいったのがバガテールである。
 カナダのウォータールー大学の博物館(“MUSEUM AND ARCHIVE OF GAMES”University of  Wateloo)のホームページにバガテールの項目があった。翻訳して掲載する。パチンコは、イギリスで1899(明治32)年に、ヘンリー・ジェラード・ペッシャーズがバガテールを立てコインマシンにした特許をとったところから、その歴史が始まった。


〈バガテールになったビリヤード〉
 ヨーロッパのビリヤードテーブルは、15世紀後半フランスのルイ11世のような重要なオーナー達とともに出現する。そして、次の世紀にはスコットランドのメアリー女王のような重要人物とともに登場する。これら初期のビリヤードテーブルにはターゲットとして、弓形や小門が形どられていた。これらのターゲットは後に、現代のビリヤードテーブルにあるポケットになった。それにもかかわらず、人々はビリヤードテーブルの新たな試作を次世紀へ向けてやり続けるのだった。その一つのタイプが今日のスタンダードなポケットビリヤードテーブルなのである。そして二つ目は、ポケットのない、より小さなカロムビリヤードテーブルである。三つ目がよく知られるバガテールである。
 フランスではルイ16世(1636〜1715)の統治頃、誰かが狭い長方形テーブルをデザインした――ビリヤードテーブルの半分の広さ。この新しいテーブルは一方の端にターゲットエリアがあり、反対の端からのみターゲットへプレイできるものであった。最初から、棒やボールがスタンダードビリヤードと同様に使われていた。盤上のターゲットはテーブルの遠くの端に置かれた九つのピンであった。ほかに、弓形や小門も置かれ、プレイする者のチャレンジ精神を増大させた。プレーヤーの順番が変わっても、彼等はピンをノックダウンさせようと試みる。そして、そのピンは先に行なったプレーヤーのスコアを打ちくだこうとする次のプレーヤーのために置き直される。結局、ターゲットは、弓形や小門に置き換えられるようになる。一人の歴史学者はこう考えた。毎回ピンを置き直すのは、ゲームプレイを遅らせる――弓形や小門を取り去り、ターゲットとしてピンの代わりの穴を用いればゲームがスピードアップできると……。 中略 ……標準的な才能の持ち主や、ポケットや、カロムビリヤードの、腕のないプレーヤーにとっても偶然の機会が与えられるようなデザインができた。
 さて、同時にルイ16世は孫娘にパリの郊外に一つの土地を与えた。そこには小さな家が建てられた。初めその家は、マドモアゼルパヴィリオンと呼ばれた。その家は後に「バガテール城」として知られるようになった。(バガテールという言葉は仏語で、英語ではくだらないもの、ささいなもの、小さなものと訳される)後にルイはその家と土地を弟のアーサーに与える。彼はいつも金銭的困難に自分を追い詰める常習的ギャンブラーであった。アーサーは、1777年に賭けで大儲けし、より大きいバガテール城を建てた。そこには、半分の大きさのビリヤードテーブルを備えたサロン・ド・ジュ(ゲーム室)があった。そのゲームはその城の名前がつけられた。なぜなら、アーサーのサロン・ド・ジュは18世紀のフランスのギャンブラーのサークルで、もっとも有名だったからである。 


 これには15世紀後半からビリヤード台の盤上に障害物が置かれていたとある。台の形も様々なことから、遊び方は屋外の遊戯を模したものを盤上で行っていたと推測できる。すなわち、ピンを倒すならばボウリングであり、ゲートを通過させるのならクロッケー(現在のゲートボール)である。
 これらがビリヤードとバガテールにはっきりと分かれるのがいつ頃なのかははっきりしないが、「バガテール城」を名称の起源とするならば、それはアメリカ建国(1776年)とほぼ同じ時期である。シェイクスピアがビリヤードという言葉を使ったのは、『アントニーとクレオパトラ』を書いた1608年(シェイクスピア46歳といわれている)であるから、ビリヤードという名称は、それ以前より固有名詞となったと考えられる。この頃のビリヤードはおそらくバガテールと区別がつかないものだったのであろう。
 川原慶賀の「蘭館絵巻」のビリヤードと「漢洋長崎居留図巻(阿蘭陀屋敷)」のバガテールは、似ているが全くルールが違うものとして江戸後期に日本に上陸していたのである。つまり、バガテールはバガテールとして日本に上陸し、バガテールと呼ばれることなく、玉ころがしへと変化したのである。
 石井研堂の『明治事物起原』によれば、明治12年に、玉ころがしは盛んに行われていたという。以下、引用する。

 明治十二年十一月『東新』第一七五号に、
 「擲玉戯大に都下に行はる、擲玉の実法は、一方台を置き而して台面に数孔を穿つ、其擲玉を以て之に陥るものを贏となし、之に景物を与ふ、日来頗る盛を致し、到る処擲者蝟集し、稚子等果して自転車を廃して玉なげに走る」
 これは玉ころがしのことらしく、擲玉は転玉なりしか。
 明治十二年十月十日の『うきよ』に、「当今流行の玉ころがしで、景物を出し、慰みやら慾張やらの客を釣り」とあり、『開化一口話』に、「玉ころがしの店に入る人は、何か目あてだらう」「穴が目あてさ」。

 擲玉の「擲」は「チャク」または「テキ」と読み、投げるという意味である。「贏」は「エイ」と読み、もうけるの意味である。自転車が明治12年にあったかどうかということだが、同じ『明治事物起原』によれば、明治12年にはかなり普及していたことがわかる。



第2項 横浜貿易新報に見る、明治32年と明治42年のビリヤードの隆盛


 下図は、明治32(1899)年2月、3月に、横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)が行ったビリヤードの達人の人気投票関連の記事である。

                       A 横浜貿易新報「球戯家投票募集」(明治32年2月26日)


      「球戯家投票募集」の投票用紙


                               「球戯家投票数結果」(明治32年3月9日)


 の「内外 球戯家投票募集」には、募集内容が英語と日本語で書かれている。ビリヤードの達人の英語表記は、「the Excellent Good-hand of Billiards」となっている。人気投票で選ばれた上位3人の球戯家には、ビリヤードのキューが贈られる。
 は、新聞の球戯家投票募集用紙である。
 は、3月9日に発表された、人気投票の結果である。1位は1万2852票を得た新井貢で、投票の1位から5位までを合計すると2万8776票で、達人たちは横浜・東京の在住者である。
 投票者はなにも貰えないのに、これだけの投票が行われたということは、横浜にビリヤードファンが多かったということである。
 下図は、横浜貿易新報が主催し、明治42年3月7日に行った「球戯奨励大会」の模様を伝えた記事である。


                               横浜貿易新報「球戯奨励大会」(明治42年3月8日)


 横浜貿易新報は、この大会の募集と規定を、3月6日の新聞に載せている。開会日時は、3月6日の午前10時で、翌7日に終了し、勝ち残った4選手の競技は、8日午後1時より開催予定とある。会場は野毛町2丁目の交友会(茂木クラブ)で、競技を見るためには、横浜在住者で、2円の会員券が必要とある。審判委員は、22名である。
 結果が出たのは、9日の午前4時で、10日の新聞には、優勝は長養軒(鞍馬会)の安齋氏と報じられている。同紙の「玉突競技漫評」には、「横浜市の球界が東京神戸に比べて遺憾乍ら較や劣つて居ると云ふ事は争はれない事実であるが其の劣つて居る第一の原因は連合競技を催ほさない事である(新漢字表記)」とある。当時、東京、神戸、大阪では、定期的に連合大会があり、ビリヤード場が主催するクラブも充実していた。
 翌11日の同コラム「玉突競技漫評」には、この大会に多数の会員を出場させた横浜の3つのクラブ、優勝者の長養軒(鞍馬会)、会場となった交友会(茂木クラブ)、麒麟亭に感謝の言葉を述べ、第2回大会を9月に行う予定と書かれている。
 江戸時代に伝来したビリヤードは、政府高官が盛んに行ったこともあり、明治末には、完全に日本に定着している。



第3項 明治の新聞より「玉ころがしの起源」を探る


 斉藤良輔著『おもちゃの話』(朝日新聞社、1971年)には、パチンコのルーツが玉ころがしにあるのではないかと次のように書いている。

 パチンコの前身の「玉ころがし」も、日清戦争前後に出現する。ゆるい傾斜のある大きな盤に玉をころがす遊びで、本来は子ども向きのものであったが、尾崎紅葉の短編小説『紫』(同二七年)に、「どうでお前のおつかひものぢや。大出来でハンケチが二枚、それとも更紗の風呂敷か――玉ころがしへ行つたやうだ」とあるように、うまく玉をころがして穴に入れれば景品がもらえるのでおとなまでが熱中し、この遊びが盛り場に軒を並べるようになる。

 日清戦争は1894(明治27)年〜1895年である。尾崎紅葉の『紫』が、どのような話であるかは後の項で述べるが、浅草ではこの小説が書かれた当時、玉ころがしが盛んに行われていた。 斉藤は日清戦争の前後に「玉ころがし」が出現と書いているが、年代の根拠については何も書かれていない。玉ころがしの起源はいつ頃であろうか。
 バガテールは江戸後期、日本に伝来した。ビリヤードは、1820年代に伝来したと考えられる。(拙著『パチンコ誕生 シネマの世紀の大衆娯楽』P.46参照)。
 玉(球)で行う遊技にボウリングがあるが、ボウリングの伝来は、1861(文久1)年に、長崎の出島のサロンに設けられた設備が最初とされる。ボウリングは江戸末期に伝来した。
 私は、玉ころがしは、バガテール、ビリヤード、ボウリングと、日本の平安時代からある、手で文銭を地面の穴(入賞口)に放る、賭博の「穴一」等から生れたのではないかと考えている。
 『新聞集成 明治編年史 全十五巻』(財政經濟學會、1934年9月第1巻発行)から、ビリヤード(撞球、玉突き)、ボウリング、玉ころがしの記事を探してみた。新漢字表記で、年代順に並べる。
 ●「 」は、見出しである。赤文字は、著者が見やすくするためにつけた。
 玉ころがしが最初に登場するのは、明治13年1月の東京日日新聞である。従って、斉藤良輔の「日清戦争(明治27年)前後に出現」は誤りである。
 ビリヤード(玉突き)とバガテール(玉ころがし)の大きな違いは、玉突きは玉自体に得点があるが、玉ころがしの得点は盤上に設けられた穴などの入賞口にあるということである。これを念頭に、〈1〉から〈22〉までをお読みいただきたい。


〈1〉1869(明治2)年4月16日、中外新聞

 ●「玉突場に異人の危難」
 「三月二八日の夜に入て神戸の外国人居留地なる玉つき遊をなす」

 これは神戸の外人居留地にビリヤード台があったことを示している。当時のオーソドックスなビリヤードを外国人がやっていたというもので、見出しに「異人の危難」とあるが、これは単に半死半生の怪我をした異人が、このビリヤード室に倒れ込んできたというだけのことである。


〈2〉1875(明治8)年10月18日、郵便報知(大阪新聞)

 ●「博奕撞球の流行」
 「世の中が開けて来たはよいが困つたものも出来るもので、丸い玉子も四角になるまいと申されませぬ。兎いふは外の事でも御座りませぬ、此頃當府今橋通四丁目へ西洋の玉撞き遊びを開場したものがありましたが、昨今は東西南北と同店が殖えて拾ヶ所程も出来ましたが、全体此遊びは四角なサイが丸い玉に変化し、長と呼び半と叫ばぬ計りゆへ博奕好物の懈けものが追々に寄り集り、大入大繁盛で御座ります。此玉撞場は上中下三等に区別して何れも類は同じものにて、盤面の白赤の二タ色に塗り、仕切りを付けて、白でも赤でもお望次第に、札(此札とは西洋料理の切手にて、一枚廿銭内外なり、先づ此場に入るとき席主より此札を買ひ、後ち立去るときに一割とか何割とかで札のまゝ席主へ売り戻す事の出来るなり)を賭け、勝負といふ掛声と諸共に玉を撞き転ばし、白でも赤でも玉の止まる所の色を勝と呼び、勝たる者は彼札の一倍を取ると申すが、ナント悪るい流行ものではござりませぬか」

 「玉撞場」とあるが、これはビリヤードではなく、バガテールと考えられる。ビリヤードは玉自体に得点があるが、バガテールは盤上の入賞箇所に得点がある。「盤面の白赤の二タ色に塗り、仕切りを付けて」とあり、そこに客が店から買った札(チップ)を置き、勝負といいながら、玉を弾き、赤白のどちらかで玉が止まったところで、あっけなく勝負がつくことから考えると、玉ころがしに近い。記事には、札は西洋料理の切手で、これは一割か何割かの手数料を払って現金化できるとある。この玉撞場は、西洋料理の景品札を隠れ蓑にした賭博である。


〈3〉1875(明治8)年11月9日、假名讀新聞

 ●「玉突を禁ぜらる」
 「大阪では山師どもが外国人を看板にして、先頃お差留になつた球撞遊を此節またまた初めたと報知新聞に有りましたが、一体此遊びは政府から厳しく御制禁になつてゐる博奕同様のもので、此に溺れると家も蔵も仕舞いには皆な失すほどの怖ろしい悪い遊び故、譬へ是から東京や横浜などに出来ましても、皆さん決して此球を手にもお採りなさるな」

 大阪で「球撞遊」が禁止となったとある。これは年代から見て、〈2〉のバガテールと同様のものと思われる。


〈4〉1876(明治9)年3月13日、浪花新聞

 ●「玉突禁止で楊弓店が流行」
 「玉突が止メになつて此節はづむ楊弓店、蜆川の大木戸トいふ宅へ昨日立派に洋服を着た人と、黒駐重の長註D八丈じまの着物、ラッコの帽子、常体の人とは見えぬ人が這入ましたが楊弓は余程面白イ処が有ると見へます、何処に味ひの有るものか」

 この記事は、〈2〉〈3〉の後日談で、玉突きが禁止になった後、楊弓店が流行したことを伝えるものである。楊弓とは、楊柳で作られた遊戯用の小弓で、楊弓場や矢場と呼ばれる遊技場で用いられた。


〈5〉1876(明治9)年5月20日、讀賣新聞

 ●「辻君、白ゆもじ、夜鷹 次の名物は玉突き
 「西京の辻君、大阪の白湯蒸、東京の夜鷹と三名物も廃されて、大阪では玉つきも厳しい御禁制なれど、東京では玉突きはお免しで有るのか諸方で見かけますが、大阪で禁制なら東京でも御禁制でよいかと思ひます。また東京でお免なら大阪でもお免でよいかと思ふが、私には何だかわからないから一寸うかがひます。(人形町 泉徳五郎)」

 これは読者の投稿で、大阪で玉突きが禁止になっているのであるから、東京でも禁止すべきで、東京が許されるなら大阪も許されるべきだという人形町の泉徳五郎氏のご意見である。


〈6〉1876(明治9)年9月○日、中外評論

 ●「玉突流行」
 「近来府下ニ於テハ、西洋風ノ遊戯玉突ガ大ニ流行シ、堂々タル官員連ガ争フテ之ニ赴キ、色々物品(決シテ金デハナイ)ヲ賭ニシテ、頗ル勝負ヲ競フトノ風説」

 「堂々タル官員連」というところから見ると、これはビリヤードである。


〈7〉1876(明治9)年9月6日、東京曙新聞
 
 ●「箱根に撞球場流行」
 「箱根温泉の玉突場が十五六カ所も出来たるよし、繁昌の景況思ひやるべし」

 「撞球場」という名称と明治9年から見て、これはビリヤードと考えられるが、「玉突場」の名称も使われており、また、温泉に泊まる客が、上流階級や外国人とは限らないので、定かではない。


〈8〉1877(明治10)年1月4日、讀賣新聞

 ●「太政大臣も玉突遊び
 「木挽町の高島徳右衛門の家で、此ほど玉つき其外の遊びをして高貴の方々も集まられ、昨日も催しがありて幹事は海軍の澤太郎左衛門君がいたされ、三條公はじめ其ほか大勢出られましたが、是は勝負ごと抔ではなくたゞ交際を広くする為で有ます」

 澤太郎左衛門は、当時の海軍教官で、太政大臣の三條公初め、高貴な方々が玉突き遊びをしたとある。この玉突きはビリヤードである。ビリヤード室付きの鹿鳴館の落成は、明治16年である。政府は、この頃からビリヤードの日本導入の必要性を考えていたのではあるまいか。


〈9〉1879(明治12)年5月3日、横濱毎日新聞

 ●「横浜の球投げ場 外人が拡張の計画」
 「本港公園内の球投げ場は狭隘なりとて、外国人等之を広くせんと目論見居ると云ふ」

 「球投げ場」とはボウリング場のことで、外国人が行っていた。


〈10〉1879(明治12)年7月18日、東京曙新聞

 ●「見物料壱円 ロヘルツ、ショルトルの曲=玉=突
 「明後十九日釆女町精養軒にて、午後第九時より欧米州に於て兼ねて玉突の巧手なるロヘルツ並にショルトル両氏が、曲玉突を催され、尤もロヘルツ氏は玉突の棒を用ひずして種々の技術を見するとの事なり其縦覧料は金一円なりと云ふ」

 明治12年には、国際的なビリヤード名人が来日し、観覧料をとって、日本人に見せた。


〈11〉1880(明治13)年1月15日、東京日日新聞

 ●「浅草の『玉ころがし』」
 「浅草公園地の茶店楊弓場も近来生た玉より木の玉が流行するに付き、玉ころがしと転業するもの既に二十余軒の多きに及べりと。然るに玉突は税金を出せど、この玉ころがしは無税なるに、園中には有税玉突の鑑札を受けて、その実玉ころがしをする者あるは是れも観音の妙智奇力とやいはん」

 この記事により、玉ころがしの玉が、木製であったことがわかる。明治13年1月には、浅草公園に20余軒の玉ころがしがあり、玉突きには税金がかかり、玉ころがしは無税であった。石井研堂の『明治事物起原』には、明治12年10月の『うきよ』によれば、「当今流行の玉ころがしで、景物を出し、慰みやら慾張やらの客を釣り」とあるという。


〈12〉1882(明治15)年2月16日、東京日日新聞

 ●「大阪玉突場の大嵐 一時に九百人の検挙」
 「大阪府下は玉突の流行なるは予て報道せし所なるが、一昨十四日の夜突然警察官吏は八方に奔走して捕縛なす者九百人余、中にはのがれんとしてきずを負ふ者あり、中々の騒動なりしと彼の地より電報」

 ここには「玉突」とあるが、これは玉ころがしと思われる。


〈13〉1882(明治15)年2月24日、朝野新聞

 ●「大阪は玉突賭博が大流行 −突如大検挙ー」
 「何国も玉突家業の流行する中に、此比大阪より帰京せし人の話に該地は取り分け盛んな事にて、昨年来は此の業を営む者あらざる町なきに至り、其の賭博も亦甚だ数一日千円以上に及ぶありて、一騎当千の博徒が見世を開らき集合し、家産を破る者少なからず、心ある者は眉をひそめ斯くの如き業を何故其筋にて差止めはせられざるやと云ひあへりしが、予めて手配のありし事と見え、去る十四日の午後九時頃人々東へ走り南へ馳せ、市街頻りに物騒がしく何事の起りしやと心安からざりしが、此夜警察署より数百人の巡査数千人の探偵掛り、一時に町町の玉突所へ踏込みし其数は六百八十六軒にて、集合せし者合せて幾千人か知らざるを一人も漏らさじとおつとり込めしかば、或は壁を毀ち又は床下へもぐり込み、川岸なるは川へ飛び入り弱きを突き除け転ぶを蹴飛ばし、上を下への騒動にてために負傷せし者四百余人、縛に就きし者二千三百人余、此夜は実に能く手が廻りしと見え川川へは水上警察が派出され、川に入り逃れんとせし者を捕へしは三百人余、巡査探偵人の負傷せしも数多の事にて、引き立てたる捕縛人は警察署に充満し立錐の余地なきが如く、近年未曾有の大騒ぎにて有りしと、ここに一笑すべき話は、同夜十一時頃宗右衛門町の松葉と云ふ貸席の二階でゴソゴソ音のする故、猫にもやと下女が棕櫚箒にて下より突と、ニヤアニヤアとなくので偖は猫とそのまゝにて寝たりしに、やがて立派な洋服にて官員らしき男が二階よりミシリミシリと下り来たり、手早く裏の戸を開け一目散に逃げ行きたるに家内は呆気に取られ、是果して盗賊ならんと二階を改め見ると、窓の戸が明てあれど一品も紛失ものなく不審に思ひ居たりしに、其翌朝無名にて謝罪と上書したる郵便葉書が届き、其の文に昨夜は思はぬ災難に出逢い據無く屋上伝ひに貴家の二階へ逃げ延び、猫の啼声にて助かり忝けなしと有りたるに、扨は玉突の一件で狼狽せし者とは知り大笑ひをなしたりと、何処の何人かは知らざれど、人の二階に飛び込みお負けに猫の声色まで使ひしは随分珍しい人物とは云へ、東京にては猫と共々狼狽する者随分なきに非ず、豈此仮声先生のみならんや」

 この「玉突」はビリヤードではなく、〈12〉同様、バガテール(玉ころがし)と思われる。すでに明治13年、浅草で玉ころがしが大流行している。2月24日のこの報道は、〈12〉の東京日日新聞の2月16日の記事とぴったり重なる。


〈14〉1882(明治15)年5月17日、東京日日新聞

 ●「玉転玉弾きよりも玉突が親玉 税金の等級定まる」
 「告第七号 ○玉突玉転玉弾キ等ノ業ヲ営ムモノハ、自今一等球戯場玉突ヲナスモノ)二等球戯場玉転玉擲ノ類ヲナスモノ)ト区別シ鑑札下付候條、此旨告示候事。(但玉擲玉弾ノ業ヲ営ムモノハ速ニ鑑札受取方警視庁ヘ応ヘ願出ヅベシ。)
   明治十五年五月十三日 警視総監 樺山資紀 
              東京府知事松田道之」

 恐らくこれは、2月14日にあった、大阪府の玉ころがしの大検挙を境に、警視庁が玉突きと玉ころがしをはっきりと区別するために出された公布と考えられる。第1項の、明治12年の「玉突並に吹矢場開業者免許状鑑札」の布達時は、まだ警視局であった。警視庁が再設置されるのは、明治14年である。
 下図は、東京日日新聞に掲載された、警視庁、東京府が公布した「告第七号」である。













玉突き、玉ころがしの明治15年の公布記事
(明治15年5月17日東京日日新聞より)

 
 玉ころがしや玉弾きよりも玉突きが親玉とあるのは、税金の等級を指している。玉突きの球戯場は1等で、玉ころがしや玉擲の類をなすものは2等の球戯場とされた。「但玉擲玉弾ノ業ヲ営ムモノハ速ニ鑑札受取方警視庁ヘ応ヘ願出ヅベシ」から、今まで玉ころがしには、税金がかかっていないことがわかる。
 かくして明治15年には、玉突き同様、玉ころがし、玉弾き、玉擲にも税金がかかるようになった。
 玉ころがしには、キューで玉を突く伝来したバガテールと同じスタイルのものと、穴を目当てに手で玉を投げるものがあった。「玉弾き」は、キューで玉を弾くものと思われる。

 
〈15〉1882(明治15)年8月26日、朝野新聞

 ●「玉転しを荒すゴロ 新場の子安が取締る」
 「市中の地獄宿が近頃玉転しに転業したるものありしに、家業に縁あるごろつき連中が毎日転げ込み、遂に散々乱妨をなしたる揚句、同士打ちの喧嘩を始め手に余りたるより、其の取締を新場の子安とて、子分の三百六十人もある侠客に依頼したるに、流石に取締法よく行届けりとの風聞あり、餅は餅屋とは此事にや」

 「地獄宿」とは、最下層の売春宿のことである。売春宿を玉ころがし屋にしたのだが、そこに集まるごろつき連中が喧嘩、乱暴を働くので、ヤクザの新場の子安に頼んだら、うまくおさまった。おそらくは、この玉ころがし屋は、この先、みかじめ料を払い続けるのであろう。


〈16〉1883(明治16)年2月2日、時事新報

 ●「玉突見料一人一弗 世界三名人の一人」
 「全世界に於て三人と称される玉突の名人なる米国人ルドルフとなんいへる人は、真に此技に名有る丈け、玉突にて各国を遊歴せし程なるが、此程我横浜へ渡来せしに付、一昨夜同港居留地十八番ホテルに於て曲突をなし一人一弗の見物料にて縦覧せしめしと」

 この「玉突」は、ビリヤードで、日本にも世界三名人の一人がやって来たのであった。


〈17〉1888(明治21)年7月3日、朝野新聞

 ●「不夜城根津遊廓哀れ落城 遊君俥を列ねて=落行く先は州崎埋立地」
 「深川富岡門前より州崎の方は地価も非常の騰貴を及ぼし、氷水、玉ころがし、鳥渡手軽の料理茶屋など日一日に増加し」

 玉ころがし屋と遊廓の関係が、これでわかる。


〈18〉1889(明治22)年9月28日、東京日日新聞

 ●「蠣殻町のモグリ 合百、玉転し等々」
 「昨日午後四時頃蠣殻町一丁目三番地にて、モグリ七十名計り数珠繋ぎに捕られたり、之は免許を得ずして密売買する偽仲買人にて、昨年来米商会所の繁盛に連れ数多入り込みて例の合百(著者注:取引所の相場を基とする賭博の一種)、玉転し其他あらゆる犯罪を為し居たる者共なりとぞ」

 この頃、無法者が玉ころがしを営業していた。尾崎紅葉の『紫』は、1894(明治27)年の作である。石井研堂が引いた明治12年10月10日の『うきよ』にある玉ころがしの記述から数えて、すでに15年以上経っている。紅葉は、小説の中で、浅草の玉ころがしの景品がハンカチと更紗の風呂敷であることを記録した。


〈19〉1899(明治32)年10月7日、國民新聞

 ●「撞球=秋期大会」
 「八日午前十時より日吉町日吉亭に於て同好の諸氏参会、玉突競技秋期大会を催す由にて、当日は晴雨に拘はらず開会、東京横浜の各選手も来会して、勝者には一等より十等迄の賞品を授与すると云ふ」

 こうして、玉ころがしに比べ、ビリヤードがますます紳士のスポーツになっていく。


〈20〉1901(明治34)年5月5日、時事新報
 
 ●「英国撞球名人来朝 ジョン・ロバーツ夫妻」
 「英国に於て玉突のチャンピオンとして有名なるジョン・ロバーツ氏は、其妻女と共に去る卅日神戸に上陸し、尚ほ近々東京にも来る筈なるが、玉突の嗜好家は其来着を俟て歓迎会を開かんと、寄り寄り計画中なるよし」

 この頃、英国がもっともビリヤードが盛んな国だった。


〈21〉1903(明治36)年7月19日、日本新聞
 
 ●「エビスビヤホール 目黒の会社構内に」
 「目黒の恵比寿ビールの醸造所は、塵圏を離れたる閑雅幽邃の地にして殊に納涼に適するを以て、今度同会社構内にビヤホールを開設し、別に球突台及びローンテニス等の遊戯場を設け来客の娯楽に供する趣向にて、来る廿五日より開場する由」

 会社構内にビヤホールを開設し、球突台を置くとは、さすが当時日本を代表するビールメーカーである。


〈22〉1910(明治43)年6月27日、東京朝日新聞

 ●「英人テーラーの曲玉 日本選手と対抗」
 「帝国ホテルに滞在して居る英国玉突の名人テーラーは、一昨日も午後九時からホテルの舞踏室で玉突会を開いた。同夜は日本の選手とも云ふべき日勝亭の鈴木龜が」「日本の田村、鈴木、森其他の名人達は四ツ玉以外に少しくポケットを研究して、今後大に世界の名人と対戦せん事を望む」

 鹿鳴館の落成は明治16年である。見よう見まねのビリヤードであったが、明治末にして、本場英国の球突き名人と対等に渡り合えるようになったのであった。


●明治15年公布の玉ころがし遊技場が、パチンコ遊技場の始まり

 日本機械学会論文発表第1回〜第4回に記した様に、パチンコの元はウォールマシンで、ウォールマシンは大正末年に日本で国産化され、昭和初期に香具師により営業された。
 それ以前から長きにわたり営業されてい玉ころがしが廃れるのは、パチンコが登場した頃である。従って、玉ころがしを営業していた香具師が、パチンコ営業に入れ替わったと考えられる。
 パチンコは、昭和一桁の遊技場に、ピンボールやコリントゲームと共に置かれていた。パチンコは戦後の風営法に基づき、警察指導により営業され、日本の基幹産業に成長するが、初めはピンボールやコリントゲームと同じ遊技場で営業されていた。
 スマートボールがパチンコの元という説があるが、これは誤りで、スマートボールはピンボールやコリントゲームを参考にして日本で生まれ、昭和10年頃からこの名が使われ始めた。従って、スマートボールの前身は、ピンボールやコリントゲームである。
 ピンボールやコリントゲームの前身は、バガテールである。バガテールは、ビリヤードと共に江戸後期に伝来し、玉ころがしの名称で、パチンコ登場後も営業されている。
 ビリヤード遊技場の取締の始まりが、警視局・東京警視本署が明治12年に布達した鑑札とするならば、パチンコ遊技場の取締の前身は、明治15年の警視庁・東京府公布の「告第7号」の玉ころがしの鑑札が始まりといえる。
 2014年、秋の臨時国会で、カジノ法制定が本決まりとなる見込みである。カジノを解禁するならば、当然、日本で行われていたギャンブルの警察指導をさかのぼり、その変遷を研究・論議しなければならない。日本におけるギャンブルの歴史を知らずして、カジノ解禁法案を審議することは不毛である。
 日本の大衆娯楽パチンコの景品交換は、生まれるべくして生まれた。パチンコの換金が違法となれば、現在のようなパチンコ営業はできない。パチンコがカジノの中に入るなら、依存症問題も含め、法的には全て解決する。
 カジノ推進法案が決定したならば、まず初めにグレーゾーンといわれるパチンコの換金問題を取り上げて欲しい。その際には、ぜひ、明治12年の「玉突並に吹矢場開業者免許状鑑札」の布達までさかのぼって、パチンコの歴史を考察し、カジノ推進法案成立後の実施法案に生かして欲しい。
 カジノによる税収は、より平和で健康的な日本の国づくりのために使われるべきである。
 
  

第4項 文学に見る玉ころがし景品



 下図の特許図面は、「バガテール・テーブルズ」といい、J.R.Learoydがイギリスで、1892年10月18日に特許をとったものである。ビリヤードのようなポケットがついているが、盤面には8個の入賞穴がある。この特許は一度分離したビリヤードとバガテールを再び合体させ、おまけに長さを調節できるレーンを付けたものである。長さ調節のレーンは明らかにボウリングの影響である。










バガテール・テーブルズ



 バガテールは様々に変化し、1889年に立ち上がり、パチンコの元のウォールマシンに変化した。パチンコの形式やデザインの歴史はここから始まるが、パチンコ台を各地に運び営業する香具師の歴史は、バガテールの伝来に始まる。日本でバガテールは「玉ころがし」と呼ばれていた。


●尾崎紅葉『紫』


  上記の「バガテール・テーブルズ」がとられたのは1892年であるが、明治の文豪、尾崎紅葉が、日本版バガテールの玉ころがしの景品について、1894(明治27)年の『紫』という小説に記録している。
 筑摩書房の『明治文学全集』によれば、尾崎紅葉は1867(慶応3)年、江戸芝中門前町に生まれている。紅葉が6歳の時、母親が死去し、芝神明町の母方の実家に引き取られ、14歳で芝愛宕下の漢学塾に学ぶ。16歳で芝愛宕下の三田英学校に入学、1888(明治21)年、22歳の時、帝国大学法科に入学した。この頃盛んに井原西鶴を愛読している。有名な『金色夜叉』が書かれたのは1897(明治30)年のことである。欧米ではこの頃、ギャンブルのコインマシンが勃興している。
 2000年11月12日の毎日新聞に次のような見出しがあった。

 尾崎紅葉の「金色夜叉」
 “下敷き”は英米小説!
 筋書きや場面描写そっくり

 私は以前から、『金色夜叉』のヒロインお宮が「ダイヤモンドに目が眩む」というくだりが、日本的ではなく西洋的だと感じていた。やはりと思って、新聞の活字を追った。

 「寛一お宮」の愛憎を描き、明治の作家、尾崎紅葉(1867〜1903年)の代表作となった小説「金色夜叉」(1897年から6年間、読売新聞連載)が、当時イギリス、アメリカで人気のあった女性向け通俗小説シリーズの1冊「WEAKERTHAN A WOMAN(女より弱き者)」を種本にして書かれたと推定されることが、11日までに堀啓子・北里大講師(近代日本文学)の研究で分かった。
 堀講師はこの本を昨年夏、米ミネソタ大学の図書館で見つけ、今年7月に内容を確認した。著者のバーサ・M・クレーは当時の人気作家で、英米の男女数人の共同筆名という。1880年代から発行された。値段は10セント(1ダイム)で「ダイムノベル」と言われた大衆向けの本。

 紅葉は翻訳本を出しているから英米の小説を種本にしていても、何ら驚くには値しない。私が驚いたのは、欧米の女性をお宮という日本の大衆にもわかる新しい女として描ききったことである。
 藤浦洸著『なつめろの人々』(読売新聞社)によれば、「熱海ブルース」という歌が「観光レコード」の第1号だそうである。以下引用する。

 もちろんこのレコードは、いわゆるプライベート吹き込みで、熱海の旅館が買って、分けるというものなのであるが、熱海に行って、これを聞いた客が、店頭に買いに来るので、ビクターはあわてて普通の一般発売レコードに転化したのである。まだ当時としては、こうした各地方の観光レコードは珍しかった上に、それがこんなに成功した作品の第一号といっていいだろう。

 残念ながら藤浦洸はこの曲がいつ発売されたかを記していない。図書館に行って調べたところ、この曲は昭和14年に発売されていた。ではここで、作詞・佐伯孝夫、作曲・塙六郎の「熱海ブルース」の一部を『なつめろの人々』より紹介しよう。

   宮を泣かした 横磯あたり
  おぼろ薄月 気にかかる
  女ごころと 温泉のなさけ
     ……以下略

 『紫』は『金色夜叉』が書かれる3年前の1894(明治27)年に、読売新聞に連載された。
 『紫』に玉ころがしが登場することを知ったのは、斎藤良輔著、『おもちゃの話』(朝日新聞社、1971年)を読んでからである。
 『おもちゃの話』で斎藤は、「パチンコの前身の『玉ころがし』」と書き、尾崎紅葉の『紫』に、玉ころがしの描写があると指摘している。おそらく、日本でパチンコのルーツについて明解に記したのは、斎藤が初めてなのではないだろうか。斎藤はこの本の中でコリントゲームについても触れ、「コリント・ゲームは、球転がしの盤物ゲーム玩具で、鉄製の小球10個を小棒で突いて盤上に転がし、穴に入った点数を争う。家庭遊戯具として流行し、大型の物は露店の遊戯にまで進出する」と書いている。
 斎藤がコリントゲームについて「○○年に○○より輸入されたゲームである」と書いていたら、パチンコのルーツはもう少し早い時期に解明されていた。
 昭和28年に河出書房より発行された『現代文豪名作全集』の中の『尾崎紅葉集』に『紫』が載っているので読んでみた。
 紅葉がこの小説を書いたのは28歳の時で、同年、帝国文庫の『西鶴全集』も校訂し出版している。『紫』は西鶴の談林調の影響を受けて書かれたと思われる。口語文体なので、旧仮名遣いに慣れた人ならすらすら読めるのであろうが、私には非常に時間がかかった。
 要約してストーリーを紹介する。
 『紫』の主人公は、味木(あまぎ)静馬という26歳の医者のたまごである。彼は14歳から国を出て日本橋の開業医、山路朴の下で医学を学び、患者からも人気があった。だが、難しい試験に合格しなければ晴れて開業はできない。この静馬は実地の腕はよいのだが、物覚えが悪いため4度も試験に落ちている。5度目の前期の試験にやっと合格し、70日後の後期試験に合格すれば医者になれることになった。田舎からは、今度試験に落ちたら、親子の縁を切り、許嫁に婿をとって家を継がせるといってきた。医者の試験の費用は山路先生が出していた。彼は責任を感じて、今度落ちたら死のうとまで思いつめている。とにかく何としても合格しなければならないので、従兄のたばこ屋の2階に部屋を借りて、試験勉強に取りかかった。
 静馬は勉強のし過ぎで半分ノイローゼになり、夜半にうなり声を立てるようになる。たばこ屋の従兄夫婦が彼を応援していることはいうまでもないが、うなり声を聞いた隣の老婆が心配して、たばこ屋に事情を聞きに来る。同情した老婆は辻占付きの飴をもってきたり、毎晩、合格祈願の経、「正信偈」をあげたりして彼を応援する。
 一方、恩師の山路先生も家族ぐるみで彼を応援した。山路先生には香という娘がいる。試験の日が迫ってくるに従い、静馬は不合格の脅迫観念で自信をなくし、ほとんど死ぬ気になって、暇乞いしに先生の家を訪ねる。だがそこで、山路先生と奥様に叱咤激励され、先生から合格祈願のはなむけまでもらう。
 以下本文より、難しい漢字をひらがなにし、私流にわかりやすくして転載する。

 「香からもはなむけがございますと」
 だしぬけに秘密を暴かれて、お香はあまりの事に何も言わず、こもる思いは千万無量ともいうべき横目で、母さんの顔をじろり。
 「感心々々。持って来な、早く持って来なよ。何だ、お前からのはなむけは。元結か、洗粉か」
 「もっと上等の品だそうで」
 と母さんはますます裏切る。お香はぶぜんとして、
 「うそ!何も有りはしないのですよ」
 「せっかくできているものを。いやな人だよ。早く持ってお出でなさいな」
 とああ母さんはついに敵となる。
 「持って来なよ、洗粉でも何でもいいから、どうでお前のおつかいものじゃ、大出来でハンケチが二枚、それとも更紗の風呂敷か――玉転がしへ行ったようだ」
 と先生は独りでくすぐって独りで笑う。
 「玉転がしだって。あんな憎いことを。玉転がしでもようございますよ」
 とお香はますますすねて、もう持ってこないと決心する。そのうちに静馬は立ちかける、  
   ……中略……
 「何だ。本式だな、うやうやしく水引きなんぞをかけこんで」
 と包紙の端をまくってみる。
 「何かと思ったらひじつきか。ほう、紫縮緬!どうしてどうして、半襟のお古をはぎ合わして、一銭が紫粉のお手染とは見えない。これは結構な物だ」
 と例の皮肉を言い言いひねくる。
 「可愛そうに、それでも新しいんですよ」
 とさすがに母さんは肩を持つ。
 「一体ひじつきとはどういう思い付きだろう」
 「その紫が、あなた趣向なんですわね」
 「紫が?うむ、紫!」
 と先生はひじつきを静馬に見せる。
 「なるほど、紫!」
 と静馬は飛び立つほど喜ぶ。
 医術開業試験所から及第を通知する郵便葉書はこんにゃく版刷り、紫はその色である! 重ねがさねの吉兆!第一には漂母の餐の越後の飴、その中に辻占の(たのもしいよ)、今生の暇乞いに来れば、思いがけなく紫のひじつき。心細い折からは果敢ない事もさらに慰められて、静馬は機嫌を直してたばこ屋に帰ると、二階は留守間に掃除をして、始終取り散らかしてある机の上までが、歌人でもすわりそうにきちんと片付いている。

 「漂母の餐」とは中国の故事にある話で、漂母とは洗濯をする老婆の意味である。漢時代の武将韓信が漂母に食事を恵まれたということから、「食事を恵む老婆」の意味がある。つまり静馬は老婆に飴を恵んでもらったということである。その飴には「たのもしいよ」と書かれた辻占がついていた。
 「ひじつき」とは肘ぶとんともいい、この時代はよく用いられていた。
 さて、ここで重要なのは明治27(1894)年の玉ころがしの景品が明解に書かれていることである。
 ハンケチ二枚か更紗の風呂敷かと書かれている。昭和20年代、30年代のパチンコ景品のチョコレートかたばこかといったところであろう。それゆえ、「あんな憎いことを」という言葉が娘の口から出たのである。ということは、この時代、東京では玉ころがしとその景品を誰もが知っていたということになる。
 それにしても、まるで落語の人情噺のようである。明治27年は、テレビはおろか映画もない時代である。日本初の常設映画館である浅草電気館は明治36年開館である。『紫』を読むと、この頃の人達がいかに願掛けや縁起担ぎなどシャーマニズムを大切にしていたかがわかる。
 『紫』の最後の終わり方は誠に見事である。さすが紅葉だ。引用してこの項を終わる。

 やがて五月二十日の夕、吉事ほとんどこれ夢のごとく、今築地一丁目に正信医院というのがそれである。


●広津和郎『遊戲場』


 横須賀市の図書館で広津和郎の全集の年譜を見たら、『遊戲場』という作品があった。広津はこの作品で、浅草の玉ころがしについて詳しく書いている。
 この作品は中央公論社の『広津和郎全集 第一巻』に載っている。私は発表当時のオリジナルのものに、遊戯場のイラストが描かれているのではないかと考えた。国立国会図書館に出かけ、初出のオリジナルを探した。
 『遊戲場』は、1921(大正10)年の『新文學』の4月号にあった。この雑誌は古すぎて、私が見たのはマイクロコピーのフィルムであった。イラストはなかった。
 『遊戲場』によれば、彼が玉ころがしに熱中していたのは、1919年から1920年頃である。まずは書き出しの部分を新漢字で引用する。

 ――昨年にかけて、私は不思議な遊戯に囚へられた。不思議と云つても何も、珍しいものではない。浅草公園の活動裏を歩いた人は知つてゐるだらうが、その辺には射的とか引つかけ釣とかさうした低級な遊戯場が並んでゐる。それ等の間に交つて、球ころがしと云ふのがある。

 広津が遊んだ玉ころがしの場所は浅草公園の活動裏にあった。先日亡くなった高倉健の「昭和残侠伝」の主題歌には、「エンコ生まれの浅草育ち」とある。エンコとは公園の符丁で、エンコといえば浅草公園を指すのである。
 2000年の5月、私は浅草公園の六区の建札の前にいた。これは昭和52年の10月に浅草公園町会が立てたもので、次のように書かれている。

 昔、この地は淺草田圃であって淺草寺領西火除地であった。明治六年(一八七三)東京府に日本最初の五公園が設置され淺草寺も公園地の指定をうけ淺草公園が誕生することになった。明治十七年(一八八四)にいたり火除地田圃の埋立が完成、この造成地に淺草寺の裏手と西北にかけての一帯、奥山の諸出店諸興行小屋を移転する計画が実施され「淺草公園六区」と称した。
 淺草公園六地区の区域は、一区が観音本堂のある境内の中心部、三社祭で有名な淺草神社は別区域であった。二区は仁王門(現在の宝蔵門)から雷門までの仲見世の両側と、その一帯である。三区は傳法院のあるところ。四区は観音本堂から興行街に通じる中間の林泉地。五区は奥山といわれていた淺草寺の裏手と西北にかけての一帯であった。
 六区とは淺草公園六区の意味である。語呂のよいところから今日まで「六区」「六区」と氣やすく呼ばれ親しまれているが、全国の大衆娯楽の盛場を代表する愛称でもある。
 淺草公園は昭和二十六年秋に解除され今日に及んでいる。 ……以下略

 浅草公園とは一区から六区までを指し、浅草公園活動裏とは六区の活動写真街の裏側ということである。電気館は前述のように日本最初の常設映画館であった。浅草電気館は1976年に閉鎖され、1992年にパシフィックコート浅草になっている。六区はそのビルの裏側辺りであろう。
 広津は「その時分私は牛込の下宿にゐたのだが、牛込から浅草まで、何か堪らなく惹きつけられ行く気がして、いつの間にか足を向けずにゐられなくなる」と書いている。広津はだいぶ玉ころがしに熱中していたようだ。
 広津は玉ころがしがどのようなものか、具体的に説明している。

 無論普通の撞球ではない。幅三尺ばかり、長さ一間ぐらゐの長方形の球台が、射的と並んで向う下りに据ゑてある。その木造の球台の表には、小さな穴が幾つも穿いてゐて、その穴毎に『敷』とか『島』とか『朝』とか『日』とか云ふ文字が印されてある。他に五個の紫檀の小さな球があつて、それをキユウで、その穴の中に狙ひをつけて突き込むのである。五個の中のどれか二つが、『朝』『日』の二つの穴に入れば、つまり朝日一個を取る事になり、『敷』『島』の二つに入れば、つまり敷島一個を取る事になる。そして若しそれ等の五個の球が、穴の中に総て入つても、その穴の文字を合はせて、それが正しく何等かの煙草の名を組立てなければ、つまりそれは客の負になる。――こんな風な遊戯である。

 私が思った通り、玉ころがしの盤面には勾配がついていた。文中には「射的と並んで向う下りに据ゑてある」とある。玉は射的と同じく、店の奥に向かって弾くのである。おそらく、突くために玉を置くところは平らなのであろう。盤面に傾斜がついているから、縁に玉を当てても跳ね返る角度は一定でない。店が絶対に儲かるようにできた台である。しかも木製であるから、台により、くせがみな違う。
 続けて、『遊戲場』から引用しよう。

 ――球台の前に立つて、粗末な棒見たやうなキユウを握り、狙ひを定めて、『敷』『島』などと云ふ穴を目がけて突くと、球は滑らかな板の表を、スルスルとゆるやかに転がつて行く。そしてそれが目指した穴にすぼりと入ると、何とも云はれない愉快な満足な気がするのだ。『よし、敷島……』私は夢中になつてかう叫ぶ。――球が板の表をうろついて、入りさうな穴に入らずに、一寸した板の上の木目の具合などから、急に途中からそれて、他の穴の方へなど行つてしまふ時、私の身体は丁度その球を引つぱり戻さうとでも云ふやうに、一生懸命に空中で、肩で調子を取つて、力味返つてゐる。『残念だな、もう少しだつたのに……』さう心の中で呟きながら、私は再び球を取り戻して、改めて突き始める。……最初の中は、何しろ低級な遊戯なので、それをやつてゐるところを、人に立止つて見られたりするのが、気が引けるやうな気がしたが、間もなくそんな事は平気になつてしまつた。私は三時間も四時間も、時によると殆んど半日位、夢中になつて、繰返し繰返し球を突いてゐた。

 この玉ころがしは5個突いて1回のゲームである。広津は1回終わるごとに、「私は再び球を取り戻して」と書いている。「球を取り戻す」とは、新たに玉を購入することである。玉を購入するには、直接従業員の手から盆のようなものに乗せて玉を受け取る方法と、従業員が客に玉を転がして渡す方法がある。従業員から玉を受け取らなくても、玉が自分の手元に転がってくるバガテール台は、広津がこれを書いた1920年以前より欧米には存在している。従って、仮に広津がやった店に、従業員から客に玉を流す装置が付いていたとしても、それにはオリジナリティがない。
 広津がやった台の唯一のオリジナリティは、店に向かって勾配が都合よくついているという、この一点である。インチキ台ともいえるこれは、香具師の発明であろう。
 客は店の従業員と話さずに一人でマイペースに遊びたいと考えたことだろう。ゲーム機がコインマシン化した背景にはそういったことがあったのである。
 広津は夢中になって玉を突いてはいるが、ただ愉快とは書いていない。むしろ「少し考へると、何となく不愉快な感じさへしないではなかつた」と書いている。それはそうであろう。突いた玉が自分のねらった角度に行かないのは、腕の問題ではないからである。客はイライラしたことだろう。それをがまんして続けるのは不毛の行為といえる。続けて、次のようにある。

 ――五個の球をころがし終へるのが一回で、その一回のゲエム代が十銭と云ふ事になつてゐる。だから若し五つの球の中の二個が、敷、島の二字に入れば、つまり敷島は十五銭だから、十銭のゲエム代を差し引いても五銭の儲けになる。朝日ならば二銭の儲けになる。若し五つの球の中四つが、敷島と朝日との二個を取る事が出来れば、十七銭の儲けになる。……無論そんなやうに一々うまく入つて行くわけのものではない。結局は入らない事が多くて、長い時間突いてゐればかなりばかに出来ないゲエム代を払はなければならない事になつて行く。……けれども、若し都合よく行けば、客の方が儲けられない事もないと云つたところに、此ゲエムの賭博的な魅力があるわけなのである。考へてみるとほんたうにばかばかしい気がする。

 広津はばかばかしいと思いつつも射幸心に負けて突き続けているのである。店がたばこではなく、敷島代金15銭、朝日代金12銭を現金で渡したら、本物の賭博である。
 昭和20年代、30年代、パチンコの景品は何といってもたばこであった。たばこは専売公社が発売していたが、たばこの大半がパチンコ店に流れ、ヤクザのたばこの景品買いが日常となり社会問題となっていた。それゆえ、現在の三店方式ができた。
 広津はこの『遊戲場』を1921(大正10)年に発表しているが、ここに記録されているのは、1919〜1920年頃のことである。広津は敷島を15銭、朝日を12銭と書いている。たばこと塩の博物館発行の『日本のたばこデザイン』によると、敷島は明治37年から昭和14年まで発売された。これをデザインしたのは本田忠保である。デザインは値段が変わってもほとんど同じである。大正8年の値段はぴったり15銭である。朝日は明治37年から昭和51年まで発売された。敷島と違い、デザインが発売ごとに多少異なる。デザインしたのは、谷武雄である。
 ここで私のコレクションから、『遊戲場』の景品と同じ「朝日」をご覧いただく。










朝日のパッケージ


 図のたばこのパッケージには、「専売局」とあり、定価が17銭なので、昭和11年頃のものである。デザインは大正8年のものと同じである。大正8年の朝日の値段は20本入りで12銭であった。広津の几帳面な記録に、文学に取り組むまじめな姿勢を感じる。
 『遊戲場』の先を急ぐことにしよう。

 併しさうして毎日のやうに浅草に行き、さういふ店から店をほつつき歩いてゐる間に、私はさうしてかういふ遊戯場に来る連中を観察する気になつてゐた。私は彼等の多くといつの間にか顔馴染になつてしまつた。私は最初彼等は偶然に浅草辺に遊びに来た序でに、一寸立寄つたかりの客かと思つてゐたら、それがさうではなくたまにはかりの客があつても、その多くはいつも同じ客である事に気がついた。そして又彼等が大概浅草付近の、その辺の地まはり風の連中かと極めてゐた私の想像も、だんだん間違つてゐた事に気がついて来た。

 広津によれば、彼等の多くは35、6が一番多いようである。中には45、6の男もいる。大方はしっかりした職業をもった商人や番頭らしい。彼等は店のちょっとしたスキや、用足しの合間をぬってやって来るようである。以下、引用する。

 ――日本橋、京橋、中には麻布あたりから来る者も少くない。私は彼等の多くに、よく電車の乗り降りの際出会つた事があるが、彼等は電車を降りると、何か急用でもあるやうな急ぎ足で、まつしぐらに遊戯場を目がけて歩いて行く。彼等の多くは浅草の公園を通りながらも、活動の絵看板をさへ見上げようとはしない。恐らく彼等の頭の中には、『敷』や『島』の穴と穴との間をうろつきまはる球が、こびりつくやうに描かれてゐるのであらう。そしてそれの魅力が、他の何ものをも彼等の眼に映る余裕を与へないのであらう。

 広津に「彼等の頭の中」がわかるのは、自分がそうだからである。頭の中をうろつき回る玉は、じわじわと燃え広がり、やがて本能に引かれるように客を玉ころがし屋へと向かわせる。玉ころがし屋にそれほどの吸引力があるにもかかわらず、大半の客は少し遊ぶと急いで電車の停車場に戻っていくことになる。彼等は店に勤めている身なのである。なぜ商人や番頭が多いかといえば、店を抜け出せるのは彼等ぐらいしかいないからである。1920年にあって、奉公人に休みはほとんどなかった。


●遊びのふるさと、浅草

 日本では、この頃、一般商店に、週1度の休みなどほとんどなかった。奉公人の唯一の休みはやぶ入りであった。やぶ入りでちょっぴり泣けるエッセイがある。沢村貞子著『私の浅草』(暮しの手帖社)より引用する。

 昔、七月の十五、十六日は「地獄の釜の蓋もあく」と言われた。この日は、あとの藪入りである。
 朝早くから、浅草公園の附近には、鳥打ち帽におしきせの縞の着物、角帯姿の小僧さんや、ひっつめの束髪に赤い櫛をさした可愛い女中さん、七三にわけた髪をポマードで テカテカにした若い衆、銀杏がえしの娘さんまで、市内はもちろんのこと、近郷近在からどっとばかりに集まり、たいへんな賑わいをみせた。
     ……中略……
 けんちゃんは、私の家の近くの酒屋の小僧さんだった。きかん坊で明るくて――やかましい旦那にどんなに叱られても、ケロリとしていた。
 眼玉の松っちゃんこと、尾上松之助がごひいきで、待ちに待った藪入りの日には、まっすぐ、六区の富士館へ駆けつけて、そこで〈活動〉をみて一日を過ごすということだった。
 「……本当はね、その帰りに、ルナパークの〈汽車活動〉を見るんだ……」
とも言った。
 そこには古い三等車の客車が一輛おいてある。客はガタガタと左右に揺れるその座席に腰かけて、前方の映写幕にエンエンとうつされる、畠の中の二本のレールだけを見るのである。それ以外になんの風景も出てこない単調なものなのだが、けんちゃんは、そこに坐ると、そのまま、遠い秋田の母親のところへ帰ってゆくような錯覚が起きて、
 「……ちょっとだけ、泣いてくるのさ」
と、照れくさそうに舌を出してみせたことがある。〈汽車活動〉の座席は、藪入りの日は満員だったらしい。

 浦山桐郎監督の映画「非行少女」(1963年)で、著者沢村貞子は、連れ込み旅館の経営者を演じた。一筋縄ではいかない女を表現して見事であった。沢村貞子は浅草の人間だから、浅草の人情と醜の両面を知っている。彼女の演技にはいつもそれが出ていた。このエッセイで、当時のやぶ入りの様子がわかる。
 浅草には花屋敷のほかに、ルナパークというアメリカ式遊園地があった。ルナパークは明治43(1910)年に開場したといわれている。
 昭和3年に発行された『現代娯樂の表裏』(橘高廣著、大東出版社)には、やぶ入りの浅草は昔の好景気を示さなくなったとある。沢村のエッセイの浅草はいつ頃を指しているのであろう。「眼玉の松っちゃん」とあるから、大正中期の話であろう。この頃、けんちゃんの休みはやぶ入りだけだったのである。
 話を『遊戲場』に戻す。広津がなじみの遊戯場でいつものごとく玉を突いていた時の話である。そこにはけんちゃんを少し大きくしたような少年が隣りで射的をしていた。

 或日だつた。私は午後三時頃その店に出かけて行つた。その時は割合に客がなく、球台は空いてゐて、それと並んでゐる射的の方にだけ一人の印袢纒に腹掛を締めた十五六の小僧風の少年が立つて、鉄砲を撃つてゐた。 ……中略…… 少し休まうと思つて、三十回で一先づキユウを置いて、私は母親の老婆が汲んで呉れた茶を飲みながら、隣りの射的をしてゐる小僧の方を見た。それまで気がつかずにゐたが、小僧は私よりも前からそこで鉄砲を撃つてゐたが、私が球をころがしてゐた間も、ずつと引続いて鉄砲を撃ちつづけてゐたのである。彼の前には彼が落した敷島が二十個ほど並べてある。それを見て、此子供はなかなか鉄砲が上手なのだな、と思つたが、よく見るとそれは間違ひだつた。その敷島の箱の側には、その箱の数の四、五倍もあるかと思はれる程、空撃の札が並んでゐたのだ。

 この店は母親の老婆と、娘と息子で営業している。遊戯場には玉ころがしのほかに射的があることがわかる。10年後に川端康成が書いた小説、『浅草紅団』(昭和5年)の射的屋と同じである。川端の『浅草紅団』では、玉ころがしは、玉5個で18銭である。広津が行なったのは10銭である。店のお茶のサービスは、戦後のビリヤード場や卓球場にも見られた。
 「空撃の札」というのは、外れ玉の札とも解釈できるが、正確には使った玉の料金札ではあるまいか。『浅草紅団』には、射的の料金表が出てくる。店は客が射的をするたびに、料金札を出した。料金は最後にまとめて払う。客は手元の札と落としたたばこの数を見ながら、損得を計算するのである。
 結局、この少年は8円30銭を店の好意で8円にしてもらう。

 『八円三十銭よ。ね八円にして置きませう。――お気の毒でしたね』
 小僧は黙つて、腹掛から巾着を出した。そしてその中から皺くちやになつた十円札を一枚取り出した。そしてそれを娘に渡した。
 『さあ兄さんお茶をお上がりなさい』
と老婆が白々しい調子で、愛想よく云つた。
 娘が五十銭札を四枚持つて来て、それを小僧に渡した時、小僧は上唇を少し持上げるやうにして薄笑ひをしてゐた。
 『いいや、いいや、構やしねえや』彼は自分で自分に弁解するやうにこんな事を呟いてゐた。が、眼が力がなくなつて、強ひて浮かべてゐる微笑が何とも云はれず淋しいものに見えた。
 『兄さん、お寿司でも取つて上げようか』と老婆が少し気の毒になつたらしく、かう云つた。
 『ううん、食ひたかねえや』小僧はさう云つて、何と云ふ事もなく、指の先で鉄砲の台を一寸撫でてゐた。そして黙つて少しの間突つ立つてゐたが、『左様なら』と云つて、しよんぼりと店から出て行つた。

 射的の最中に、娘がかわいそうに思いこの少年を止めようとするが、母親の老婆は「近頃の小僧さんは、なかなか好いお金を取るんだから、心配する事はないさ」という。広津はそれを冷静に見ている。そして、最後にこの話を次のように終わらせている。

 ――私は何かわけの解らぬ非常に淋しいものの姿を見たやうな気がした。心がかなしく濡れてゐた。

 「左様なら」といって出ていく少年は今と違い礼儀正しい。因業そうな老婆も、最後は寿司を取って上げようとする。今の時代には見られない光景である。
 1920年の遊戯場には、貧しさと賭博ごころと人情が入り交じった、「わけの解らぬ非常に淋しいものの姿」があったのである。
 大正10年のこの『遊戲場』が発表される3か月前に雑誌『雄辯』に室生犀星が『幻影の都市』を発表している。この中で犀星は浅草十二階のラセン階段の9階の落書きを紹介している。その中の一文を引用する。

 ここよりして、遠く故郷の空氣をかぐ。此處よりしてわが願ひは空し。

 誰にでも生まれた場所がある。丁稚奉公であれ、学生であれ、人々は志を立てて、東京に出てきたのである。都市で生きるのは生やさしいことではない。くじけそうになると人々は浅草に行った。人々は遊ぶことにより、自己を取り戻した。
 昭和5年の『浅草紅団』を読むと、浅草は不良少年や不良少女、ルンペンやアウトローの溜まり場のような印象を受けるが、彼等とて故郷はある。休日がないこの頃、浅草こそが年齢や身分や男女を超越した娯楽と慰安のメッカだったのである。人々は浅草に故郷の郷愁を求め、遊び泣くことにより心の浄化作用を行なっていた。店が絶対に得をする玉ころがしであろうと、なかなか落ちない射的のたばこ積みであろうと、人々は承知でやっていた。
 客は勝とうと思ってゲームを行なうが、負ける確率の方が高いことも知っている。負けることを前提にゲームをやる客はいないが、負けても充足感が得られる場所として浅草があったのだ。
 昭和30年代にパチンコ客が一様に口にした言葉は、「大学教授も日雇いも、玉を打つ時、みな同じ」であった。ゲームをする時、人はみなアウトローになる。そして、ルンペンと大金持ちの間を行ったり来たりする。