クレーンゲームとヘチマクリームの新聞広告 |
日本初のパチンコ機製造のオーエヌ商会は、昭和2、3年頃(昭和元年は年末の1週間しかなかった)の創業である。だがパチンコ業界は伝聞により、オーエヌをオーエムと間違って呼んでいた。 2008年刊行の『パチンコ誕生』で私は、電話帳から「大阪市浪速区霞町1丁目1番地」の通天閣の麓にオーエヌ商会があったことを記した。オーエヌ商会は1940(昭和15)年には、麻雀屋となっている。おそらくこれは昭和15年7月7日に出された「七・七禁令」によるものと考えられる。 これまで、オーエヌ商会の記録は私が発見した電話帳の記載以外なかったのであるが、今回、新しい発見を『パチンコ』に載せることができた。左写真の私が指さす広告がそれである。これは拡大図で、赤矢印下がその元である。(『大阪朝日新聞』昭和7年7月10日) この広告の裏側には、「ヘチマコロン」と「ヘチマクリーム」の全面広告が載っている。ヘチマクリームは新発売でチューブ入りであった。ヘチマコロンの最初の発売は、1915(大正4)年で、ヘチマと同じ緑色のガラス瓶に入っていた。ラベルは文字等にアール・ヌーヴォーの影響が見られる。化粧水なのであるが、白粉の溶かし水としても使われた。竹久夢二の宣伝広告はあまりにも有名である。ヘチマコロンは女性だけの使用ではなく、片岡千恵蔵を起用し、ひげそり後の肌の手入れにも使われ、非常にユニセックスな製品であったのである。ヘチマクリームにも男女のイラストが載っている。広告には「クリームのチューブ時代来たる!」とある。全体が構成主義風なデザインである。 |
「機械器具」の欄には、「ケーキグレーン」とあり、「専賣特許第九三七二五號 オーエヌグラスパー 會社創立記念と して壹千台限大特價提供」とある。「グラスパー」とは操作用のつまみのことである。オーエヌ商会は、昭和7年3月に大 阪でパチンコが全国初の禁止となったので、クレーンゲームの販売に路線を変えたと考えられる。 日本初のクレーンゲームの特許は、昭和6年3月に大對芳太カにより出願され、同年7月に公告されている。 |
クレーンゲームはすでに1920年代にアメリカで完成している。1930年代には世界中で流行した。 クレーンゲームの日本の特許第1号の名称は「自働販賣機」である。1回のコイン投入で、クレーンを1回使える。みごと景品を外に排出すれば、大成功。 北尾鐐之助は、昭和7年刊行の『近代大阪』(創元社)で、香具師による「四、五台のケーキ・クレーンの車屋台が並び、大勢の子供たちや」と記している。 広告に「ケーキグレーン」とあるのは、中に置かれた菓子を当時、「ケーキ」と呼んでいたためである。「グレーン」は「クレーン」のなまりである。 ケーキクレーンは、店舗にも、香具師の露店営業にも使われていた。 「オーエヌ娯樂機株式會社」の住所は、「大阪市港区三軒家西1丁目」である。ここは現在、「大阪市大正区三軒家西1丁目」で、近くに「三軒家西福祉会館」がある。 オーエヌ娯樂機株式會社はパチンコが大阪で禁止になったので、クレーンゲームの「専賣特許第九三七二五號」をうたい文句にクレーンゲームの売り出しにかかったようである。それもそのはずで、この時代、実用新案ならともかく、ゲーム機が特許としてとられるのは珍しかった。事実、この後、様々なクレーンゲームの実用新案が続々ととられている。 宣伝の中央のホウトク商會の広告にもこの特許番号「第九三七二五號」が記され、「機械ハ完全 最新型 安心シテ使ヘル機械 日本一大量設備」とある。 |