『パチンコ誕生 シネマの世紀の大衆娯楽』 |
杉山一夫著 創元社、2008年 |
パチンコは、昭和初期、日本で生まれた遊技機である。だが、その元は、西欧の 頑丈な無人自動のウォールマシンである。ウォールマシンの裏板を外し、日本のか らくり等の技術をいかし、有人のマシンに作り変えたのがパチンコである。 パチンコは初め、台の中に玉が1個あるだけで、玉が台の外にでることはなかっ た。 昭和12年、玉を込め、玉を打ち、入賞すると、台から玉が出るようになった。 長い間、わからなかったパチンコのルーツを、解き明かしたのがこの本である。残念ながら、現在、絶版になっている。定価 3200円+税 発行年月日 2008年9月5日 ISBN 978-4-422-21013-1 判型 A5版 頁数 472頁 |
『戦前からあった台湾のパチンコ』 |
杉山一夫著 電子書籍、キンドル出版 |
パチンコは、昭和初期、日本で生まれ、日本で発展し、戦後の昭和27(1952)年前後、日本人の大衆娯楽として大ブレイクした。 パチンコは、戦前すでに、海外まで進出している。パチンコは、日本統治時代の台湾に渡り、台湾でも製造されていた。本書は、パチンコ業界誌「遊技通信」(2009年)に、2回に渡り発表したものをパチンコ業界関係者でない方にもお読みいただけるよう、加筆し、電子本にしたものである。 台湾にあった幻のパチンコとは? 書名 戦前からあった台湾のパチンコ 定価 200円 発行年 2014年 ご購入は、こちらから http://www.amazon.co.jp/dp/B00NT6MR0I |
『コリントゲームと人生劇場』 |
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●コリントゲームを知っていますか? 戦前、コリントゲームという、日本国中で遊ばれ、人気を博した遊戯器があったことをご存知であろうか? 今はその名を聞いても、ほとんどの人がわからないが、これがパチンコの元になったといわれたことで、かすかに記憶に残っている年配の方もいらっしゃるのではあるまいか。 パチンコは、昭和初期、日本で生まれた独自の遊技機である。パチンコは第二次世界大戦後、日本の大衆娯楽として大発展した。だが、そのルーツは、平成の時代になってもわからず、パチンコ業界では長い間、コリントゲームが元であると報じていた。パチンコの元がコリントゲームといわれて久しいが、2008年、私は、『パチンコ誕生 シネマの世紀の大衆娯楽』(創元社)を出版し、パチンコの元が外国のウォールマシンであることを明かした。そしてパチンコがいかにして日本の大衆娯楽、大産業へと発展したかを記した。だが、コリントゲームがどこで、どのように誕生したのかは、紙面の都合で書くことができなかった。 コリントゲームが流行した後、コリントゲームとピンボールが合体し、スマートボールができる。スマートボールはコリントゲームと呼ばれていた時期もあった。 初めパチンコは、台に玉が1個しかなく、その玉は台から外に出るものではなかった。出てきたのは、現金やトークン(代用貨幣)であった。現金等が出るパチンコはあからさまな賭博なので、警察当局が禁止する。昭和11年前後、台から玉の出るスマートボールが登場する。スマートボールはコリントゲーム同様、玉と景品を交換するシステムであった。このシステムを真似、パチンコの第二の誕生ともいうべき、台から玉の出る、今では当たり前になったパチンコ機が昭和12年に登場する。パチンコの業界人が、コリントゲームとともにスマートボールをパチンコの元という理由がここにある。 ご購入は、こちらから http://www.amazon.co.jp/dp/B00PCKIF9Q |
『バー・クラブ・喫茶店物語 ジャズの街・ヨコスカ』 |
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ーはじめにー 私が子供の頃の1950年代、確かにEMクラブ周辺のドブ板通り、黒人解放区と呼ばれた汐入の黒人バー街からは、ジャズが聞こえていた。だが、EMクラブに入ることができた日本人は、従業員か、ジャズメンか、当時パンパンやオンリーと呼ばれていた女性達に限られていた。 私がジャズの街・ヨコスカの実態を明かすため、タウンニュース横須賀版に「バー・クラブ・喫茶店物語 ジャズの街・ヨコスカ」の連載を開始したのは、2010年10月のことである。おかげで、次から次へと取材に応じてくださる方が続き、2016年6月10日の連載198までの間で、横須賀の俗称地名として有名な「ドブ板通り」の名称の由来と区間を明らかにすることができた。 連載で私は、たびたび自分が書いていることがわからなくならないように、「連載○○に記した通り」を使った。そのため読者から、「その○○を読みたい」という問い合わせが私と編集部の下に相次いだ。私としても、連載の中に、ところどころ間違いがあるので、連載の途中ではあるが、ここで連載1〜連載198までの改訂版を出すことにした。 決心したのはよいが、あまりにもローカルな話なので、出版を引き受けてくれるところがない。そこで、限定50部、版画付の、手作りの私家版を出すことにした。 地図のあるページを外して、過ぎし、懐かしいヨコスカの散策に役立てていただければ、とてもうれしい。 書名 バー・クラブ・喫茶店物語 ジャズの街・ヨコスカ 定価 3500円 発行年 2016年 販売店 はるかぜ書店(横須賀市上町) |
『塚山公園と按針祭とパンパンと美空ひばり』 |
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1600年、イギリス人、ウィリアム・アダムス(後の三浦按針)が、波濤を越えて日本に上陸した。アダムスは徳川家康のブレーンとなる。家康はアダムスがもたらした大砲により、関ヶ原の戦いに勝利し天下を取る。 徳川家康はアダムスに横須賀の逸見を領地として与える。だが、按針は家康の死後、平戸で没する。 横須賀の按針塚の按針の墓発見は、1872(明治5)年のことである。1902(明治35)年、日英同盟が結ばれると、三浦按針の墓がにわかにクローズアップされる。按針の墓があることを示すため、塚山公園が国家的プロジェクトで造られる。だが現在、この過程を知る人はほとんどいない。それは横須賀市の広報に誤りがあるからである。本書はこの誤りを正すとともに、なぜ誤った報道がなされたかを明かす。 按針祭は塚山公園の完成後、毎年行われていたが、第二次世界大戦の勃発により中止となる。 戦後の復活第1回按針祭は、占領軍の横須賀米海軍基地司令官デッカー大佐の司令により再開された。 戦後のこの時代の横須賀は、パンパン(ゲイシャガール)で溢れ、米兵に性病が蔓延した。デッカー大佐は、彼の夫人の協力で、日本の婦人会を通し、コンドームを配った。歴代基地司令官は、性病の女性が出たバー・キャバレーをオフリミッツ(立入禁止)にした。米兵達が目指した店は、A級標識のついた店であったが、ここにも、性病の女性はいた。 横須賀の戦後まもなくの経済は、パンパンのいるハウスの税収で成り立っていた。バー・キャバレー、スーベニアショップにも客寄せのため、パンパンが必要であった。 米海軍基地は、たびたび日本の警察(市警)とともに、パンパン狩り込みを行う。1951(昭和26)年、横須賀市の人口が26万人の時、狩り込みで逮捕されたパンパン(夜の女)は8500人以上いた。 だがパンパン達は、屈することなく、出没した。この状態は、1958(昭和33)年4月の「売春防止法完全実施」まで続いていく。米海軍横須賀基地は、バー・キャバレーにA級標識の替わりに、性病防止のAサインを発行した。 1952(昭和27)年、横須賀商工会議所が、米兵を呼び込み、ドルを吸い上げるため、パンパンを賛美した、「横須賀音頭 タマラン節」を作るが、これが朝日新聞他で批判され、全国的に知られる。この歌の歌詞により、横須賀がパンパンの街、世界の赤線と有名になった。商工会議所は歌詞を替えレコードを完成させる。 だが、コロムビアレコードは、話題となったこの元歌を販売しようと、レコードをプレスする。だが、猛烈な反対運動が起こり、コロムビアは発売することができなくなった。このレコードは、国立国会図書館の歴史的音源に保存され、今も聴くことができる。 美空ひばりの初期代表作「リンゴ追分」は、「タマラン節」の翌5月にプレスされている。ひばりは、戦後、横浜でデビューしたと語られる。だが、戦中、父親が司厨兵として横須賀海軍基地に徴用され、ひばりはそこを慰問し、歌っていた。私は、横須賀のこれをひばりのデビューとしたい。 本書は、塚山公園と按針祭とパンパンの知られざる真実を、当時の新聞他をもって、明らかにするものである。 書名 塚山公園と按針祭とパンパンと美空ひばり 定価 1500円(税抜き) 発行年 2018年 ご購入は、こちらから http://www.amazon.co.jp/dp/4990988604 |