パチンコ誕生博物館へようこそ!!

           

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現存最古のパチンコ台、現存最古のスマートボール他



 この部屋には、現存最古のパチンコ台、日本製現存最古のウォールマシン、日本製現存最古のピンボールマシン、現存最古のスマートボール他、戦前の一銭パチンコ、メタル式パチンコ、藤井正一考案の、初の台から玉の出るスチールボール野球パチンコ等々を展示している。




現存最古の日本製ウォールマシン「球遊機」



 大正末年、遠藤美章商会(後の日本娯楽機製作所)で製造さ
れた、「日本製ウォールマシン」。1銭を投入すると盤面に玉
が出て、それを打ち、入賞するとウォールマシン同様、景品の
引換券が出た。ウォールマシンには引換券が出るものと、現金
が出るものがあった。

 外国のウォールマシンは頑丈な鉄製のメカで成り立っている
が、これは軽量で、からくり人形にも似た構造である。

 これには1900年にジョン・ジェラード・ペッシャーズによっ
てとられた特許、「ピックウィック」の仕掛けが付いている。

 ピックウィックとは何かは、ご来館の折、ご説明。





現存最古のパチンコ台@「岡式電氣自動球遊機」

 ネームプレート


 1929(昭和4)年頃、大阪の岡製作所で製造された、野球ゲームの「一銭パチンコ」。ネームプレートには、「岡式電氣自動球遊機」とあり、実用新案登録番号が記されている。
 これはパチンコの特許(実用新案)第2号の番号である。
 一銭パチンコ台には、玉が1個内蔵されており、1銭を入れると、盤面に玉が出て、玉を打ち入賞すると、裏にいる香具師(やし)が1銭、2銭を払い出した。
 盤面の玉は、けっして外に出ることはなかった。
 あからさまなギャンブルなので、昭和7年、パチンコ発祥の大阪で全国初の禁止となった。




現存最古のパチンコ台A「岡式電氣自動球遊機」

 ネームプレート






 1929(昭和4)年頃、上記の岡製作所で製造された「一銭パチンコ」。上記の台と全く同じネームプレートが貼られている。
 だが、盤面も内部メカもかなり違っている。このAの台は入賞すると、「電氣自動球遊機」の名称通り、電球が点灯する。
 1銭、2銭の払い出しは、@の台同様、香具師が行った。下図の裏写真を参照。










 パチンコ台の裏から、私が手で玉を払い出している写真を指さす私。
 1銭投入で、入賞すると2銭、3銭の払い出しではあるが、立派な街頭賭博である。



現存最古のパチンコタイプ菓子販売機「野球自働販賣器」



 バッターのユニホームの文字は「NK」に見えるが、本当は早稲田・慶応の「WK」で、早慶戦を意味している。





 昭和2〜7年頃の1銭投入による無人の菓子自動販売機。
東京の東洋自動娯楽器商會により製造された。
これも野球の見立てで、ゲームで遊んだ後、菓子が出る形式。

 1927〜1932年

 













 「野球自働販賣器」の裏板を外した写真を指さす私。




現存最古の日本製ピンボールマシン「BASE BALL]

 1931〜1933年



 昭和6〜8年、相浦遊戯器製作所で製造された、5銭白銅投入の、現金も引換券も出ない、ただ遊ぶだけの日本製ピンボールマシン。
 このマシンの元は、アメリカのゲンコ社の1930(昭和5)年製造のピンボールマシンと考えられる。
 産業革命が起こらなかった日本は、遊技機までも模倣して先進国に追いつこうとした。





現存最古のスマートボール「帝發式スマートボール」

 1935〜1936年頃





 昭和10〜11年頃、東京市の帝國發明品商會により製作された「帝發式スマートボール」。
 「スマートボール」の名付け親は帝國發明品商會である。
 スマートボール名称はこの台により広まった。
 コイン投入口はなく、店から玉を買って打ち、入賞すると台から客に玉が払い出された
 「スマートボール」と書かれた文字の右側の旗は、満州国の国旗である。満州国は1932(昭和7)年から1945(昭和20)年まで存在した。





戦前の才田式一銭パチンコ(メタル式)「竹菊すすき」
発売元新潟西村商会(昭和8〜13年)

 1933〜1938年


 金沢駅前の才田商会が製造し、スマートボール製造のパイオニアとして名をなした、新潟の西村商会が販売。
 コイン投入口に「一銭入口」とある。金沢では1934(昭和9)年に射幸心(賭博心)を煽るものとして、メタル式が禁止となっている。メタルはメダルの訛りである。業界人はトークンのメダルを出すパチンコ台を「メタル式パチンコ」と呼んだ。だがメタル式と一銭パチンコの区別はつきにくい。はっきりメタル式とわかるようになるのは、投入口に「一銭入口」と記されなくなってからである。この時期の才田式一銭パチンコは、1銭とメタルの両方が使われていた。
 入賞口のハッタリの絵は、九谷焼の絵師が描いたという。
 一枚絵として描いたものを裁断して使用した。
 この台は、金沢の才田商会の一銭パチンコが、新潟の西村商会で販売されていたことを示している。当時の業界人は互いに組みし、販売を促進していた。




台から初めて賞球が出たパチンコ台「スチールボール野球パチンコ」
京極遊戲器製作所

 1937〜1940年


 昭和12〜15年、名古屋の藤井正一が作った、初の、台に玉を入れ、玉を打ち、入賞すると、景品玉が払い出されるシステムのパチンコ台。藤井はコリントゲームの遊技場を経営したこともあり、入賞玉の得点で景品を出すコリントゲーム屋が許可されるのなら、パチンコもメタルでなく玉を出せば警察の許可をとれると考え、自ら玉の出るパチンコ台を作ったのであった。
 当時のチラシには、「京極遊戯場内製作部」「スチールボール野球パチンコ」とある。
 ちなみに1937(昭和12)年12月4日に、金沢市の中川清が全玉式の実用新案を出願し、翌昭和13年6月7日に公告されている。
 

右側ハンドル上の玉入口


左の写真は、パチンコ業界の記念碑的「玉入口」である。

玉を出す裏構造は、ご来館いただき、直接ご覧ください。



 


台から玉が出て間もない頃のパチンコ台「才田式野球パチンコ」

 

 これは、1937(昭和12)年頃、石川県金沢駅前の才田商会が作った全玉式パチンコである。「全玉式」は私の命名、玉を入れ、玉を打ち、入賞すると、景品玉が払い出されるシステムをいう。
 上記、藤井正一の作った「スチールボール野球パチンコ」と入賞口の配置がほぼ同じデザインである。藤井は後に、台から玉の出る「スチールボール野球パチンコ」は、すぐに真似されたと語っている。
 才田式野球パチンコが藤井の台と大きく違うのは、玉を込める「玉入口」の位置が、才田式の場合は盤面に向かって左側にあるということである。才田商会は、最初はハンドルの上よりも、左上の方が玉が入れやすいと考えたのかも知れない。だが、盤面に玉が出るまで時間がかかり過ぎるので、藤井正一のハンドル上の玉入口の台に戻ったのであった。




左上の玉入口








金沢駅前才田商会とは目と鼻の先の、寺内商店製のメタル式パチンコ
昭和8〜13年

 1933〜1938年




 コイン投入口には「一銭入口」とある。1銭を払い出すか、1銭と同じトー
クン(メタル=メダル)を払い出すかは地域によって異なる。ここでの表記は
メタル式パチンコとした。

 ハッタリには、見事な義経が描かれている。
 才田商会製の台同様、九谷焼の絵師が描いたと考えられる。














 1939(昭和14)年の「金澤市大日本職業別明細圖」にパチンコに関係した場所を記した。
 私が指さす場所が金沢駅前の才田商会。

 パチンコは、始まりは外国のウォールマシンの模倣であったが、香具師(やし)がパチンコ台の裏で操作する半自動で営業したため、パチンコ台の複雑なメカを必要としなかった。香具師のパチンコ営業は初めからパチンコ台を横一列に並べる島(シマ)の形態で行われたと考えられる。
 私はその後の島の発展の経緯から、パチンコは日本の発明と考える。
 以後、当局の許可が得られる台が製造されると、業界人はすぐそれを真似た。
 パチンコは業界人の真似に次ぐ真似で発展していった。
 正村ゲージはその真似の中から生まれた。
 だが、正村商会の台は丈夫で故障が少なかったため、売れに売れ、大量に生産された。
 1954(昭和29)年の連発式禁止まで、正村竹一の正村商会が名古屋のパチンコ製造のトップを走った。
 連発式禁止と同時にオール20も禁止となり、パチンコ店から客が一斉に引いた。それまで4、5万軒あったパチンコ店が1万軒を割る。パチンコ業界はオール10ではもう客が呼べず、たった一つ残された、正村ゲージオール15にパチンコ客を惹きつける魅力的な役物を付け、客を呼び戻す以外生き延びる方法がなかった。
 パチンコが正村ゲージから始まったという伝説は、こうして生まれた。
 この後も、真似に継ぐ真似が続き、パチンコ店そのものが人間が入れる、全国一律の巨大なパチンコ台となったのであった。




ルネ・クレール監督「巴里祭」

 当博物館は、パチンコに関するポスターやチラシも収蔵しているが、中でも、下図の1933(昭和8)年封切当時のルネ・クレール監督の「巴里祭」は珍品。この映画には、ビストロ(フランス語で「小さな料理店」)に置かれていたウォールマシン(フランスではマシン・ア・スウ=小銭機械)が登場する。DVDでこの映画を見てから当博物館にご来場いただくと、パチンコとウォールマシンの違いがわかること請け合い。






 下の私が指さすおみくじ販売器「千手(せんじゅ)観音」は、明治末年から大正初期に有田製作所で製造されたものである。写真右側は、千手観音に投入する2銭銅貨である。貨幣の重みで、カムが外れ、ゼンマイが稼働し、おみくじが1枚出る仕掛けである。2銭で紙切れ1枚なのだから、原価からいって、これほど儲かる機械はない。もっと儲かるのがギャンブルマシンである。
 おみくじ販売器の右側は、1920年代のイギリス製ウォールマシン「ファイブ・イン」である。
 その隣は、1915年頃のドイツ製のドロップマシン「クラウン」である。中央にクラウン(道化師)がバケツをもっている。クラウンを左右に動かし、バケツの中に上から落ちてくる玉を見事受け止める(ピッククィックする)と現金やトークン(代用貨幣)が払い出される。
 明治から1920年代にかけて、あらゆる自動販売機が伝来し日本でも作られるが、中の構造は初めから江戸のからくりを導入している。
 初めコインマシンは、実用性というより、無人の機械から物が出る面白さの方が先行していた。パチンコはその面白さから始まった。
 当博物館で、大変珍しい数々の「一銭パチンコ」をぜひ、ご覧いただきたい。

    
    2銭銅貨



 千手観音に投入する2銭銅貨は、1873(明治6)〜1884(明治17)年の製造。だがその後も長く使われた。江戸川乱歩の処女作『二銭銅貨』は1923(大正12)年に発表されている。