お 知 ら せ

都合により、12月11日、18日、1月1日は閉館にいたします。

よろしくお願い申し上げます。


      パチンコ誕生博物館へようこそ!!   












日遊協広報誌、2022年11月号に取り上げられました。







『パチンコ』(法政大学出版局「ものと人間の文化史」シリーズ) 2021年6月21日に刊行



〈パチンコ誕生博物館館長よりお知らせ〉

 13年前、私は『パチンコ誕生 シネマの世紀の大衆娯楽』(創元社、2008年)を刊行し、パチンコのルーツを明かした。だが、パチンコの正しい歴史が認識されず、パチンコ業界では相変わらず旧態依然の歴史を報道し続けている。

 『パチンコ誕生』出版後も、新発見の、パチンコ台から初めて玉が出た、藤井正一の「スチールボール野球パチンコ」や、新たな資料も発見していた。

 私はパチンコの歴史を埋もれさせないために2020年6月28日、私設博物館を開館させた。開館とほぼ同時に法政大学出版局から、『パチンコ』を「ものと人間の文化史」に加えたいとのオファーがあった。この上ない話に驚喜した。

 執筆中に、ミン・ジン・リーの『PACHINKO』の日本語訳が出版された。この本は大いに私を啓発した。私は自著『パチンコ』がこの本の副読本になることを夢みた。

 かくして、手打ち式パチンコの通史を綴ることができ、2021年6月21日に刊行。



 その刹那、日本で最初のパチンコ機メーカー、オーエヌ商会(業界ではOM商会といわれつづけ、それは今だに訂正されていない)の昭和7年の新聞広告を発見した。すべり込みセーフで、これも本に載せることができた。

 パチンコは戦後、正村竹一が考案した「正村ゲージ」によって大発展を遂げたと語り継がれてきた。その正村ゲージは、実は正村が考案したものではないのである。現在流布されているパチンコの歴史のうそを暴き、正しい歴史を後世に残したいという思いで、この書を綴った。

 ぜひ、大勢の方々にお読みいただきたい。

 そして、多くの反論を心待ちにしている。ぜひ当館においでいただき、実物を見ながら、反論をお聞かせ願いたい。


https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784588218613




『玉ころがし』(法政大学出版局「ものと人間の文化史」シリーズ)2022年7月25日に刊行



〈パチンコ誕生博物館館長よりお知らせ〉

 昨年、法政大学出版局より『パチンコ』を出版した。

 パチンコのルーツの一つに、「玉ころがし」がある。『パチンコ』の編集を担当していただいた赤羽健氏に、「玉ころがしが立ち上がってパチンコになった形跡、パチンコに与えた影響はまったくないのですか?」と聞かれ、ふいをつかれた思いであった。

 なぜなら、玉ころがしは、実物もイラストも残っておらず、いつ、どこで誕生したのかもわからなかったからである。

 調べていくと、その元はパチンコと同じルーツをもつ西欧のバガテールで、江戸後期、日本に伝来し、玉ころがしとなり、明治初期、大人気になっていた。そして日本からアメリカに渡り、アメリカでも大人気!玉ころがしは日系人のお家芸となった。さらに玉ころがしはイギリス、フランスにも渡った。日本の玉ころがしは尾崎紅葉、萩原朔太郎、佐々木味津三、川端康成、広津和郎らが文学に記録し、アメリカにおける玉ころがしは、田村松魚、永井荷風、谷譲次、坪内士行らが実体験を元に書き残している。フランスの玉ころがしは、林芙美子、辻潤、辻まことらが記録している。失われた遊技、玉ころがしとは何か???

 なお『玉ころがし』は、『パチンコ』の姉妹編である。


https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784588218811





クレーンゲームとヘチマクリームの新聞広告

 日本初のパチンコ機製造のオーエヌ商会は、昭和2、3年頃(昭和元年は年末の1週間しかなかった)の創業である。だがパチンコ業界は伝聞により、オーエヌをオーエムと間違って呼んでいた。
 2008年刊行の『パチンコ誕生』で私は、電話帳から「大阪市浪速区霞町1丁目1番地」の通天閣の麓にオーエヌ商会があったことを記した。オーエヌ商会は1940(昭和15)年には、麻雀屋となっている。おそらくこれは昭和15年7月7日に出された「七・七禁令」によるものと考えられる。
 これまで、オーエヌ商会の記録は私が発見した電話帳の記載以外なかったのであるが、今回、新しい発見を『パチンコ』に載せることができた。左写真の私が指さす広告がそれである。これは拡大図で、赤矢印下がその元である。(『大阪朝日新聞』昭和7年7月10日)
 この広告の裏側には、「ヘチマコロン」と「ヘチマクリーム」の全面広告が載っている。ヘチマクリームは新発売でチューブ入りであった。ヘチマコロンの最初の発売は、1915(大正4)年で、ヘチマと同じ緑色のガラス瓶に入っていた。ラベルは文字等にアール・ヌーヴォーの影響が見られる。化粧水なのであるが、白粉の溶かし水としても使われた。竹久夢二の宣伝広告はあまりにも有名である。ヘチマコロンは女性だけの使用ではなく、片岡千恵蔵を起用し、ひげそり後の肌の手入れにも使われ、非常にユニセックスな製品であったのである。ヘチマクリームにも男女のイラストが載っている。広告には「クリームのチューブ時代来たる!」とある。全体が構成主義風なデザインである。
 「機械器具」の欄には、「ケーキグレーン」とあり、「専賣特許第九三七二五號 オーエヌグラスパー 會社創立記念と
して壹千台限大特價提供」とある。「グラスパー」とは操作用のつまみのことである。オーエヌ商会は、昭和7年3月に大
阪でパチンコが全国初の禁止となったので、クレーンゲームの販売に路線を変えたと考えられる。

 日本初のクレーンゲームの特許は、昭和6年3月に大對芳太カにより出願され、同年7月に公告されている。

 クレーンゲームはすでに1920年代にアメリカで完成している。1930年代には世界中で流行した。
 クレーンゲームの日本の特許第1号の名称は「自働販賣機」である。1回のコイン投入で、クレーンを1回使える。みごと景品を外に排出すれば、大成功。
 北尾鐐之助は、昭和7年刊行の『近代大阪』(創元社)で、香具師による「四、五台のケーキ・クレーンの車屋台が並び、大勢の子供たちや」と記している。
 広告に「ケーキグレーン」とあるのは、中に置かれた菓子を当時、「ケーキ」と呼んでいたためである。「グレーン」は「クレーン」のなまりである。
 ケーキクレーンは、店舗にも、香具師の露店営業にも使われていた。
 「オーエヌ娯樂機株式會社」の住所は、「大阪市港区三軒家西1丁目」である。ここは現在、「大阪市大正区三軒家西1丁目」で、近くに「三軒家西福祉会館」がある。
 オーエヌ娯樂機株式會社はパチンコが大阪で禁止になったので、クレーンゲームの「専賣特許第九三七二五號」をうたい文句にクレーンゲームの売り出しにかかったようである。それもそのはずで、この時代、実用新案ならともかく、ゲーム機が特許としてとられるのは珍しかった。事実、この後、様々なクレーンゲームの実用新案が続々ととられている。
 宣伝の中央のホウトク商會の広告にもこの特許番号「第九三七二五號」が記され、「機械ハ完全 最新型 安心シテ使ヘル機械 日本一大量設備」とある。
 





〈ご挨拶〉



 私が創元社より、パチンコのルーツを解き明かした『パチンコ誕生 シネマの世紀の大衆娯楽』を出版したのは、2008(平成20)年8月のことである。資料的な価値があるということで、全国の図書館にご購入いただき、読者から本に載っている現存最古のパチンコ台他を見せてほしいという声が相次いだ。自宅では対応できないので、翌2009年2月、東京銀座の新井画廊で、本に載せた私の版画とともにパチンコ機やコリントゲームを展示したところ大変な反響で、私はNHKテレビ他に出演した。パチンコ業界のお歴々にもご覧いただいたが、業界はパチンコの歴史に関心が薄く、本は当てにしていた業界人には買ってもらえず、ほどなく絶版となった。 


 パチンコ業界は、金儲けには熱心だが、パチンコの文化史には全く関心がないようで、業界が報じているパチンコの歴史は私が本を出す前とあまり変わらず、現在に至っている。手打ち式パチンコは大正末に始まり、約50年間存在した。


 展覧会後、私はパチンコ業界や公共の博物館等々にパチンコの寄贈を申し出たのであるが、パチンコはギャンブル依存症等で非常に評判が悪く、全て断わられた。


 だが、本を出してから12年目であるにもかかわらず、一部の読者からは、いまだに私のもつパチンコ台が見たいという連絡がある。私も歳をとった。そこで私の、手打ち式パチンコの50年間を網羅したパチンココレクションを引き継いでくれる人を探すため、自宅をリフォームし、日曜の午前11時から午後5時まで開館の、「パチンコ誕生博物館」を始めることにした。


 ご覧いただく方に入場料500円分、私がご納得いただけるまで解説いたします。


 パチンコ誕生博物館にようこそ!                         


       2020(令和2)年5月吉日         杉山一夫